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───8月23日。

「本当に無理だけはしないで下さいよ」

「分かってますって」

院長の言葉に,何度目かの同じ答えを返す。

取りあえず今日で聖志はこの病院から退院できる。これは院長の判断ではなく,本部長の計らいである。本当は1週間ほど様子を見て異常がないようなら退院させるつもりだったようだが,仕事をする上でずっとこの場所に居座るのは病院にとってもJSDOにとってもメリットはない。

「取りあえず鎮痛薬を出しておきますから,1週間経ったらまた診察に来て下さい」

「はい」

まだ完全に痛みは引いていない。しかし骨折ではないので特に気にする必要もないと思った。

聖志は取りあえず持ってきていたパソコンを鞄に入れると,病室を出た。まだ腕は吊り下げたままだが,自宅に帰った時点で取り外せばよい。

病院を出る。まだ10時だというのにもう太陽が照りつける。

───まずは寺岡の居場所か。名前変更した裁判所が分かれば何とかなりそうなものだが…。

自宅に帰るには,まず駅に行かなければならない。残念ながら車で来ていないのだ。

聖志は病院から道路に出ようとすると,

「あっ!」

衝突しそうになった彼女が声を上げた。目の前にいたのは数日前に病室に来た,藤堂霞織だ。今日は制服姿ではなく,黒のブラウスとダークブラウンの半パン。

「よぉ」

「あの,助けてくれない?」

「…は?」

いきなりそんなことを言われて聖志は驚いた。しかしその表情からして,彼女は思いの外真面目に言っているようだ。

「どうかしたのか?」

「…誰かにつけられてるみたい」

彼女は心持ち声を潜めた。

「ストーカーか?」

聖志はそんなことを言いながら駅へ歩き出す。

「分からない」

「いつからだ?」

「昨日から」

「…昨日からって,そんなに外を歩き回ったのか?」

「違う。家の中でも,誰かに見られてるような気がしたの」

「ふーん」

女の勘は鋭いというが,ただの勘違いかも知れない。

「で,なんか変わったことがあるのか?」

「それはないけど」

彼女は躊躇いなく言った。

「無言電話がかかったり,ピンポンが押されたり」

交差点の赤信号で足を止める。

「全然」

「…じゃあ,勘違いじゃないのか?」

「違うってば,絶対」

彼女は多少怒る勢いで言った。

「そうか…なら,警察にでも行ってみるといい。そもそも,何で俺のところに来たんだ?」

「あんたなら分かってそうだと思ったけど。警察ってのは個人のこととなると全然動いてくれないじゃない」

───なかなか分かってるではないか。

「それで,そのことが公になると捜査し始めて,犯人を逮捕すると我が物顔でマスコミに発表するのよ。そのくらい知ってっんじゃないの?」

彼女は捲し立てるように聖志に言った。まるで聖志が悪いと言わんばかりに。

しかし全くもって彼女の言う通りである。どんな事件に関しても個人レベルの未遂の時はほとんど警察は動かない。動かないという表現よりは,動けないと言った方がいいかも知れない。

「…それで,どうして俺のところに来たんだ?」

基本的な質問に戻る。

「なんか警察っぽかったから」

「どこが?」

「ピストル持ってたじゃん」

「…なるほど」

聖志は諦めた。決定的な瞬間を見られていたことを忘れていた。

「それで,犯人を捕まえろと?」

「当たり前じゃない」

「…残念ながら俺に逮捕権はない」

あくまでも逮捕権は警察にある。立場的にJSDOはそのサポートをするだけだ。

「じゃ,殺すだけでもいいから」

「…あのな」

どうやら彼女は聖志を完全に警官だと思いこんでいるようだ。その旨を説明すればいいのだが,わざわざこちらから説明してしまうと余計なことまで喋ってしまいそうだったので避けているが…。

「そう言えば,あんたの仕事って何なの?」

と,うまい具合に一番いい質問だ。

「全部は言えないが,取りあえず警察とは違う。基本的には警察が分からないような事件の情報を得て,そこから犯人を洗い出し,その情報を警察に売る…って感じかな」

聖志は概念的な部分を中学生レベルで分かるように説明した。現在追っている事件では警察と平行しているが,ほとんどは裏ルートからの情報入手や犯人の印付けである。

「警察が分からない事件?」

「そう」

「何なの,それって?」

「そこから先は企業秘密だ」

青信号に変わった横断歩道を歩き出す。藤堂は慌てて付いてくる。

「じゃ,警察と探偵で2を割ったようなもの?」

「ま,そんな感じだ」

彼女の日本語は間違っているが,彼女の考え自体は間違っていないだろう。

「それじゃ,あたしの依頼を受けてくれない?」

藤堂はいきなり目の前に立ちふさがり,そう言った。

「依頼? ストーカーを発見することが?」

「そうよ。ちゃんとした仕事なら文句ないんでしょ?」

「…確かに」

そう,文句はない,というか反論する術がない。

───口のほどは一枚上手か。

さすが一年余分に生きているだけのことはある。日本語はなっていなくても考え方はそれなりに成長するものだ。

しかしこれには困った。聖志は今事件を追っているだけに,こういうまともな依頼を受けると現在遂行中の事件が藤井任せになりそうだ。聖志が抜けたとしても藤井がかなり動いているのでこの事件は解決しそうだが,彼的に終焉を見届けたいという願望もある。

「…まだ何か言いたそうね?」

彼が決めかねていると,彼女の方から声をかけた。

「じゃ,正式にあたしから仕事として依頼するわ。ちゃんと報酬も払うし」

表情を見る限り冗談ではなさそうだ。

───…致し方ない。

「…じゃ,取りあえず上司に許可を取ってみる」

致し方の如何で判断することではないのだが,勝手に口が答えていた。

「ありがと」

「待て,まだ依頼を受けると言ったわけではない」

「分かってるわよ。早くその許可とやらを取って」

そう言って彼女はポケットから携帯を取り出し,聖志に突きつける。

「分かった,ちょっと待ってろ」

観念した聖志は差し出された彼女の手を押し戻し,日陰になっている路地に入ると後ろポケットに差してある携帯を左手で取り,短縮ダイヤルで本部にかけた。いつものようにコンピュータガイダンスに沿って自分のIDを入れる。それを彼女は端から真面目に見ている。

「君か。退院したか?」

「はい,お陰様で。突然なんですが,私の方に別件で依頼が来まして…」

「別件?」

「はい,個人の身辺調査をしてほしいと」

「身辺調査か…。手続きはしたのか?」

「いえ,先方には本部長の許可を取ってからと言う風に話してありますので」

「そうか。…」

本部長が何やら冊子をめくっている音が聞こえる。

「本来ならこちらに資料を送ってからにしてほしいが,携帯からということは急なんだろう。許可は出しておくが,後で仕事内容をこちらに送ってくれ」

「ありがとうございます」

「しかし,優先順位は間違えるな」

「承知してます」

「うむ,くれぐれも無理はするな」

「分かりました」

聖志は電話を切る。

「許可は取れた」

「ホント?」

「ああ」

「よかった。まあ,当然よね。…それにしても…」

そう言いながら彼女の表情が緩む。

「…何がおかしい?」

「だって,ホントに真面目に話すんだもん,あっはは!」

彼女は声を上げて笑う。

「…笑いすぎだ」

「あたしにもそう言う風に接しなさいよ,年上なんだから」

そう言ってまだ包帯で吊している右肩を叩く。

「っ!」

その瞬間,彼女はすぐさま手を引いた。彼女もついついやってしまったのだろうが,聖志の方も予想を上回る痛みを感じ,思わず左手で患部を押さえる。

「あ…ごめん」

「…仮にも俺は怪我人なんだからな」

聖志はゆがんだ顔を元に戻しながら言う。

「ごめん,手が勝手に」

───こいつ,撃ち殺すぞ。

「…それじゃ取りあえず,依頼の内容を聞かせて貰おう」

気を取り直して尋ねる。

「あ…,うん。え…と,さっき言ったみたいに,昨日あたりから誰かに付け狙われてるから,そいつを調べてほしいの」

「それで,心当たりはないのか?」

取りあえず痛みが治まってきたので,駅に向かって歩き出す。

「…ないわ」

「全くないのか?」

「…ない」

「学校内でも?」

「…ない…と思うけど」

「何だ,ずいぶん歯切れ悪いな」

「そんなこと言われても,しょうがないでしょ。誰が何でこんなことするか分からないのに」

「…そうだよな」

───多分いないだろう。

聖志はそう結論付けた。何度も質問したのは,本当に心当たりがないかどうかを調べるために,である。心当たりのある奴は大体がすぐさま「いない」と断言するはずである。

「で,そいつが現れてから何か変わったことは?」

「…全然ない」

「で,それは勘違いじゃないと」

「そう」

───正確に言うと,変化はあるかも知れないが,それに気付いていない,またはそれに気付かないほど些細なものであるということか。

変化というのは彼女が受動的に受けたことだけではない。彼女自身が能動的にやっていることも含まれる。例えるなら,夜歩くときに自分以外の気配を伺う,早足になるなど。

「ところで今からどこへ行くの?」

「ん?」

突拍子もないことを言われて周りを見ると,駅構内の切符売り場に到着していた。

───…俺は家に帰るだけなんだが…話の続きを聞くとなると。

「どこへ行く?」

「…暑いから茶店でいいんじゃない?」

というわけで,高崎駅ビル内のとある喫茶店。店内は適度に広く,適度な温度に保たれていた。アンティークな椅子,テーブル,照明が調和してヨーロッパの雰囲気を醸し出している。

2人は駅前通が見える窓側を避け,一番壁の方に席を取った。

「あの,さっきはごめん」

席に座った途端,いきなり彼女が謝ってきた。

「さっき,肩叩いたこと」

「気にするな」

妙なところで気を使う性格のようだ。

「…でも,ホントに大丈夫? そんなんで出歩いて」

「出歩くも何も,俺は退院したって,さっき言ってただろ」

「よく退院できたよね」

「出来たんじゃなくて,したの。無理に」

本部長の差し金である。

「何で?」

「仕事のためさ」

「そんなんじゃ仕事にならないんじゃないの?」

「何とかなる」

「この間みたいになったらどうする気?」

「…この間…ああ,あんなことには滅多にならない」

20日の銃撃戦のことだ。

「じゃ,何であのときはあんなことになったの?」

「君があのときあの場所にいたからだ」

指示代名詞ばかりの会話だが,確かにその通りである。あのとき彼女があの場所を通りかかったから,藤井が彼女を巻き込み,聖志がたまたま撃たれただけである。ただ,藤井が彼女を巻き込んだ理由はJSDOの規定に沿ったものだ。

「それで,さっきの続きだけど」

聖志は軌道修正し,続けた。

「そのストーカーらしき人物のことは,俺以外の誰かに話したか?」

「ううん。あたしは話してない」

彼女は目の前に置かれた紅茶をかき回しながら言った。

「……何かあるのか?」

含みのある表現に,聖志は尋ねる。

「あ……,ちょっとね」

「ちょっと,何だ?」

答えを促すと,彼女は何やら言いにくそうに視線を逸らす。

そのまま沈黙が続くこと約1分,聖志は彼女の言葉を待つ。こういうタイプは根気よく待たないとなかなか喋ってくれない。こういうことは棚丘警部補が得意で,こんな状況に陥ると彼は大抵内容を変えた質問をいくつかして,その内容をつなぎ合わせて本来の質問の答えを得る方法を採る。しかし聖志はそこまで達者ではない。

「…あたしの,親が知ってるの」

「…ホントか?」

彼女は首を縦に振る。

「親ってことは,ご両親か?」

「…お母さんは知らない…と思う」

かなり遠回しに彼女は言った。つまり,父親は知っていると言うことは分かっているが,母が知っているかどうかは分からないと言うことであり,同時に彼女は両親と交流が薄いようだ。

「お父さんの名前は?」

「………知らない」

少し考えた後,彼女は吐き捨てるように言った。相当溝があるようだ。

年頃の娘はよく父には懐かないと言うが,この様子ではそれどころの問題ではないようだ。

「…じゃ,同居している人物はいるか?」

「え? な,何言ってんの?」

「同居している人物はいるか,って聞いたんだけど」

「そ,そんなのいるわけないでしょ!」

───意外に純情か?

少し彼女は顔を赤くして言った。どうやら彼女は勘違いしたようだ。

「…勘違いするな。純粋に,君が住んでいる住居に常にいる人数は一人なのか,と聞いている」

「それならそうと早く言いなさいよ! …いないわ」

同居人まではいくら個人情報を見たところで分からない。

「じゃ,ストーカーに気付いたのは,どこ?」

「家の近く」

───ほほう。

家の近くと言うことは,かなりやり手のストーカーかも知れない。家の近くまで彼女がストーカーの存在に気付かなかったと言うことだ。

「家は…郊外?」

「どっちかって言うと駅に近いから市街地じゃないの?」

「…そうか」

と,聖志の携帯が震える。

「はい」

「聖志か,今どこにいる?」

声の主は藤井だ。

「高崎市駅だ」

「OK。直接話したいことがある」

「分かった」

聖志は電話を切り,店の壁に掛かっている時計を見る。

───AM11:45。

「…ま,そんなわけで俺はこれで失礼する」

「どういうこと? まだ全部話してないわよ」

彼女は真面目な顔をして言った。

「必要なことは全て聞いた。取りあえず付いてきてくれ」

聖志は有無を言わさず立ち上がり,会計を済ませて店の外へ出る。

駅改札まで行くと,取りあえず藤井を待つことにする。しかし彼女がいると多分藤井が嫌がるだろう。そこで聖志は策を弄した。

───藤堂霞織様,財布を落とされましたので至急北側改札までお越し下さい。

駅構内放送が入った。

「え?」

隣の藤堂は驚いて,慌てて財布の入っているはずの短パンのポケットを探す。

「…あるけど」

そう言ってそれを取り出し,聖志に見せる。黒い,普通の財布だった。

「…本当に君のもの?」

「何言ってんの,さっき茶店で…」

「あれは俺が出したはず」

「…」

「…それ,誰の?」

聖志は追い打ちをかける。

「…一応見てくる」

彼女はそう言って反対側の改札へと走った。彼女の性格を看破した上での作戦だ。

しばらくすると,

「…かなり大げさな策だな,それは」

「仕方ないだろ」

聖志は藤井に言った。

「で?」

「ああ,寺岡らしき人物を見たというかなり有力な情報だ」

「見た?」

「誰かと話していたらしい」

「情報源は?」

「近所の住人だ。時間は夜だったそうだから顔ははっきり分からなかったらしい」

「なるほど。で,肝心の場所は?」

「高崎市城田だ。星野さんから聞いた」

「つまり,警察がまたリードか」

「そう言うことだ。だがまだ見つかった訳じゃない。どうやら改名して逃亡しているらしい」

「…ということは,その裁判所を見つけないと」

「ああ。それまでは大丈夫だと思うが,早いに越したことはない」

「ま,そうだな」

話が一段落すると,藤井は胸のポケットからタバコを取り出す。

「…それより,さっき本部長から聞いたが…彼女の件,引き受けたのか?」

「……ああ」

「何か思う節があったのか?」

「…はっきりとは」

「あのな…」

───ま,何か出るんじゃないか?

何も思う節がなかったわけではないが,具体的に言われると分からないのだ。しかし,何かが出てきそうな気がしたのだ。

「情報はこれだけだ…裁判所のデータがあれば手っ取り早いんだが」

そう言って彼はため息を吐く。それとともにタバコの煙が宙に舞う。

「…そういうのは役所にありそうだけどな」

聖志が何気に呟いた。

「……そうか,彼の出身地の役所を当たってみるか」

「ああ,こちらも調べるから頼む」

「OK」

藤井はそう答えると,足早に駅から去った。と,いいタイミングで彼女が戻ってきた。

「…どうだった?」

「違った。それで,これからどうするの?」

「んー。取りあえず来て貰おうか」

「どこへ?」

「事務所」