高崎駅前のレストラン。彼はそこで少し遅れた昼食を摂っていた。頼んだ定食をちょうど食べ終わると,後ろポケットの携帯が鳴った。
「もしもし」
「俺だ」
「ああ,どうかしたか?」
「俺を殺ろうとした人物が分かりそうだ」
「何?」
火を付けようとしていたタバコをひとまず置いた。
「憶測だが。それは置いといて,お前にやって貰いたいのは寺岡の居場所を突き止めることだ」
急に話題が変わったので理解するのに時間がかかる。
「分かってる。お前が動けないんじゃ,俺がするしかないだろ」
「それで,追加情報として,寺岡は改名しているらしい」
「改名?」
「残念ながら改名した名前は分からない。裁判所に行っても情報は隠蔽されているらしい」
「どこからの情報だ?」
「高崎署。さっき棚丘が来た」
「タイミングがいいな」
「ああ。しかも向こうは何かしら掴んでいそうだ」
「…ならいっそのこと向こうに任せた方がよくないか?」
「出来ることならそうした方が楽だが…」
「何かあるのか?」
「シークレットレベル8が付いてる」
「…大げさになるか」
世間に分かっても混乱の起こらないものならまだしも,これは一抹の不安を持たせる。
「ま,当分の間は大丈夫かも知れないが」
「じゃ,こちらで当たってみる」
「悪いな。すぐに俺も合流する」
「了解」
電話を切ると,藤井はレストランを出る。真夏の太陽とムッとするアスファルトの熱気が彼を襲う。取りあえず駐車場へ向かおうとすると,向かい側の歩道を歩いている人物に釘付けになった。
───中槻?
車が行き交う間から彼の顔が見えた。半袖のシャツとジーパン,黒いディパックを片手で担いでいる。この間聖志が撃たれたときには相手が誰かまでは分からなかったが,風貌と歩くときの癖を見てみると重なるものがある。
無意識に彼を追ううち,藤井は高崎駅の2番ホームに立っていた。
自宅に帰るつもりなのか,はたまたどこかへ出かけるのか。電車が来ると,当然それに乗る。藤井は中槻が座っているところから通路の反対側,4つ後ろのシートに座る。クロスシートなので多分気付かれないだろう。
───学校へ行くつもりなのか?
電車は中山行き。既に3つの駅を通り過ぎたが一向に降りる気配はない。それどころか鞄を隣の席に置き,頭を窓に預けて眠っているようだ。
学校がある東高崎に到着。しかし彼は眠っている。藤井は覚悟を決めて徹底的に彼をマークすることにした。
───25分経過。
電車はそろそろ終着駅の中山駅に到着する。先ほどまでとはうって変わって都会的な風景が広がっている。高架沿いには高層ビルが並び,駅も高架橋上にある。そんな風景を眺めていると,不意に中槻が動いた。そろそろ中山駅2番ホームに止まろうかと言うとき,彼は横に置きっぱなしだった黒いディパックを担ぎ,ドアの前に立つ。
藤井は見失わないように出来るだけ近付き,同じドアからほかの客に紛れて降りる。
中山駅は普通電車の中継地点に当たり,ホームが5つある。その大きな駅のホームを歩き,ホームの真ん中の階段を下りて改札を出る。改札を出ると正面にバスターミナルとタクシー乗り場がある。中槻は真っ直ぐにタクシー乗り場へ歩き,黒いタクシーに乗り込む。藤井は例によって別のタクシーで尾行するべく乗り込む。
「あれを追ってくれ」
「あれですか。追うより先回りしましょうか?」
「え?」
「前に乗せたことがあるんですよ。行き先は分かってるけど」
人の良さそうな顔立ちをした40前後のタクシードライバーが言った。思いも寄らない言葉に,藤井は一瞬ためらったが,
「じゃ,頼む」
「わかりました」
藤井は彼を信じた。
それから約10分,表通りは通らずに住宅街を走り,一方通行の道を通り,田園風景の中を走り,いつの間にか表通りに戻っていた。
「着いたよ」
そう言われて外を見ると,ビジネス街の一角だった。中層ビルが建ち並び,ビジネスマンが行き来している。
「…ホントにここなのか?」
「間違いないよ。3回も同じところだから」
「…分かった,いくら?」
代金を払う。
「後5分ぐらい待ったらさっきのが来るよ」
「そうか,ありがとう」
藤井はタクシーを降り,目の前の建物の入口に立つ。
サテラシステム株式会社焼摩支社。間違いなく会社前には,そう書かれていた。
───こんなところに本当に彼が来るのか?
そう思いながらも,熱気の立つアスファルトの上を行き交うサラリーマンを眺めながらさっきのタクシーを待つこと5分。
───来た!
本当にさっきのタクシーが来た。ナンバーも合っている。
彼は取りあえず会社の中に入ってロビーで中槻が入ってくるのを待つ。ロビーは正面がガラス貼りなので外の様子がよく見える。しかも何より涼しい。
中槻が乗ったタクシーは会社敷地内の駐車場に入り,隅の方に停車した。中から黒いディパックを担いで中槻が出て来た。藤井は顔が見えないように手近にあった新聞で隠す。
エントランスの自動ドアが開き,彼が入る。彼は正面の受付で何かを話すと,受付嬢が電話をかける。しばらくすると中槻は奥のエレベーターへと進む。それを確認すると藤井は取りあえず彼を追った。
エレベーターホールには4本のエレベーターがあり,そのうちの1本の表示階がどんどん上に上がっていく。しばらく見ていると,17階で止まった。藤井はそれを念のためにメモり,同じエレベーターを使うことにした。
ようやく17階に到着すると,エレベーターホールから出る。
オフィスのような部屋はなく,この階はどうやら一般社員は出入りしないようだ。
多少高級に装飾された真っ直ぐな廊下があり,それを辿ると一枚のドアを発見した。藤井はフロアに誰もいないことを確認すると,そのドアに聞き耳を立てた。
…
気配がないことを確認すると,そのドアを開ける。
その部屋は接客用のソファセットが並べられ,部屋の中央にはガラスのテーブル,床には赤い絨毯。南側には窓がある。いわゆる高級社員用の接客室である。
向かって左側にもドアがある。よく絨毯を見るとそれに続く足跡を発見。恐らく中槻のものだろう。藤井はすかさず聞き耳を立てる。
「何だって,話が違うな」
分厚いそのドアの向こう側から声がした。
「…でしょう? なら…」
「こっちもそれなり…したんだからな。その…と納得できないな」
恐らく中槻と誰かの会話である。しかし,もう一人の声が小さくて聞き取れない。
「でも……てない…」
「だが…では…」
「…の場合は…」
「いいんだぜ。そっちがその気なら…」
───中槻の依頼人か?
どうやら口調からして相手は女性のような感じがする。
「どうする気?」
「出方次第さ。考え直すってんならそれでもいい」
中槻が妙に偉そうに言っているところを見ると,相手より立場が有利なのだろう。
「じゃあ…ならどう?」
「もう一度奴を殺れってのか?」
中槻が続ける。
「多分ダメだな。例え成功したとしても向こうは前回で目星がついてるだろうからな…」
と,そこまで言ったところで向こうの部屋で何かの呼び出し音が鳴る。それと同時に廊下側のドアの向こうで男の声がした。
───まずい!
藤井はとっさに隠れる場所を探す。さっきも探したが隠れられそうな場所はない。しかし向こうの部屋からは足音が迫る。不意にドアのすぐ側にあった,テーブルクロスがかかった長いテーブルの下に潜り込む。取りあえずここで乗り切るしかない。
そのすぐ後にドアが開く音が聞こえ,男が中に入ってくる。
「代理,葉麻社長がお見えになりました」
「分かったわ,下まで迎えに行くから」
「はい」
そう言うと,男は下がった。
代理と呼ばれた人物は一旦自室に戻り,中槻を引き取らせるつもりらしい。
───今しかないな。
藤井は気配を伺うと足音を立てずにその部屋を出た。その1秒後,代理と中槻が部屋から出てきた。
「じゃ,この日時までにこの口座に振り込んでくれ」
「…分かったわ」
半ば強引に彼はメモを手渡した。
「この日時までに確認できないと契約は破棄だ」
「分かってるわよ」
少し面倒そうに言いながらも中槻との契約を破棄しないのは,これ以上の腕利きを知らないからである。最近海外に行っていない中槻は生活費の確保のためにこういう生活をしている。飯代を稼ぐ程度に思って気軽に契約しに来たのだが,復興会社社長代理にこんなことを依頼されるとは思わなかったのだ。しかし契約した以上は使命を遂行しなければならないし,何より彼のプライドが許さない。
「ん?」
不意に足元を見た中槻は,いきなり床に這い蹲った。
「どうしたの?」
「…まずいな」
「え?」
彼は立ち上がり,代理の顔を見る。
「…誰かに聞かれたみたいだ」
「…誰かって!?」
「足跡だけで分かるか。誰かに聞かれたことが分かっただけでも運が良かったな」
彼は吐き捨てるように言った。
「…まさか…彼が…」
代理は呟いたが,中槻はそれに対する突っ込みはしなかった。
「あなた,…あの娘を殺ったの?」
彼女は少し怯えた顔で尋ねた。
「さっき言っただろ,失敗した。ただ,そのボディーガードのような奴を撃ったけど」
「ボディーガード?」
「詳しくは知らない。もしかすると偶然一緒にいただけで,ボディーガードじゃないかも知れない」
「…誰なの?」
「俺の知人によく似た奴だ。名前は知らない」
「…その人じゃないの?」
「あり得ないことじゃない。俺はあんたに指示されたとおりあの場所に入ってたら,そいつらが出てきた。それで,そいつらを追ってみると案の定,こいつが出てきた」
中槻は以前預かった写真を見せた。
「何故2人を追ったの?」
「俺が以前から目を付けてた。彼等が動く先には何かある」
しかし,それが聖志であることは知らない。聖志と中槻が接触してから約3ヶ月だが,すんでの所で行動中の聖志達は中槻に顔を見られていないのだ。ターゲットを見つけたのは本当に偶然の産物である。
と,彼女の携帯が鳴った。
「ごめんなさい,早く行かないといけないから」
中槻が頷くと,彼女は足早に部屋を出ていった。
「全く,面倒なことだ」
彼はそう呟くと,部屋を出た。