───8月22日,AM1:39。
聖志はパソコンを持って病室を出てすぐにある,喫煙室に来ていた。喫煙室の中には公衆電話がある。これを利用しない手はない。実は一昨日の警視庁のデータ奪取で取り忘れていたものがあった。最後の10秒間でとれなかったものだ。恐らくあの部分に木塚を脅迫した寺岡の8月12日の行動情報があるはずなのだ。
公衆電話に付いているコネクタにケーブルを接続し,警視庁へアクセスする。この間試したプログラムでそのデータを検索する。
数秒後,レスポンスが返ってきた。やはり文書形式だが,あの証言データと同じく暗号化されている。さっき美樹と作ったプログラムを介して日本語に変換し,ようやく読める状態になった。
聖志はデータを全て取り終わると,一旦病室へ戻った。夜はたまに看護婦が見回りに来る。
───アリバイは完璧だな…。
証言者は係長。寺岡は定刻通り午前9時出勤,そのあとは開発業務をこなし,定刻通り5:30に退社したそうだ。彼が仕事をしているときは昼食時を除き,ずっと自分のデスク上のパソコンと睨み合っていたそうだ。それは係長だけでなく複数の同僚から証言がある。
この日木塚は社長のスケジュールより1時間早い午前8時に出勤,それから周辺整理をし,8時30分に社長を迎える。そのあとは社長とともに外回りに行き,側を離れたのは10分間の休憩時間だけである。帰社したのは午後5時。社長とともに社長室に上がり,明日のスケジュールを確認してから退社した。彼女が問題のFAXを見つけたのは,社長室に入る前に社長がトイレに離れた約5分の間であった。話によると,木塚のデスク専用のFAX付き電話に例の文書が送られてきていた。
聖志が拾ったデータから得られた情報は,このようなことだった。しかし肝心の寺岡が木塚を脅す動機が見つかっていない。それでも警察は寺岡の線で捜査を進めている。警察はとにかく物証を見つければ寺岡を取りあえず犯人に仕立て上げることができる。物証とは,脅迫の文書が印刷されたFAXである。
───物証が残っている可能性は低いか。
藤井が言っていたように,高崎署の昨日の捜査であらかた調べられただろう。しかし恐らく何も出ていない。何か出たならこのデータに載っているはずだ。
それにしても,机から離れないでFAXなんて送れるのか,という疑問がわいてくる。確かにオフィスの何人かの机には専用の電話が引かれている。しかし係長の話では,寺岡の机には確か電話はなかったと言っている。これも現場に行ってみるしかない。
───AM10:37。
担当の看護婦に散歩に行くと言ってそのままJCSに直行。当然藤井も来ていた。
「お前,大丈夫なのか?」
聖志はまだ右腕を吊している。
「ああ,歩けるし,ちゃんとグロックも持ってきた」
そう言って腰の後ろのホルダーを確認する。
「ま,逃げるが勝ちだからな」
「全くだ」
JCSの本社に入る。あの事件のせいで会社は全く稼働していない。社員は自宅待機か,この期間だけ地方へ回される者もいる。少し長めのお盆休みと言うところか。
エレベーターに乗り込み,15階まで上がる。
「それで,何を調べるんだ?」
「物証探し。と言っても,FAX用紙を探すわけじゃない」
用務員に言ってオフィスを開けてもらい,捜査の許可を貰った。オフィスの扉の前には,この間まで被疑者だった葉麻隆文社長に来て貰っている。
「どうも」
葉麻社長は頭を下げた。
「申し訳ありません,朝早くから」
聖志がそう言って頭を下げる。聖志は前の事件で少し面識があり,尚かつ彼の娘である葉麻佐紀ともよく知った仲である。
「…どうされたんですか?」
葉麻は聖志の吊された右腕を見る。
「ああ,少しばかりドジを踏みまして」
「…そうですか,お大事に」
「ありがとうございます。では本題に入りましょう」
早速オフィスに入る。
証言者の係長ではなく社長を呼んだのは,彼との答えの照合のためである。社員にも評判のいい葉麻社長は,社員一人一人を覚えているらしい。聖志はそれを信じたのだ。
取りあえずこのオフィスの社員配置を教えて貰う。彼の証言は,係長のそれと同じだった。寺岡のデスクはオフィスの一番端,係長の机から最も遠いところである。社員一人一人のデスクは簡単なしきりで仕切られており,完全な差別化がなされている。社長が言うには開発部なので仕事に集中できるように配慮したということだ。
注目の寺岡のデスクだが,確かに電話は置かれていない。電話が置かれているデスクは係長の正面の9人に限られている。開発部ということで,これも社長の配慮だ。電話の応対はほとんどが営業部か,人事部に回される。
「…外部から注文が来たときはどうするんですか?」
「それは開発スタッフのパソコンに伝達されます」
「なるほど,社内LANか」
藤井が頷いた。彼も少しは勉強したようだが。
「それは直接,外部からの注文をディスプレイに映すと言うこと?」
「そうです」
「…ということは,モデムを装備しているわけですね?」
「はい。開発スタッフのところはほとんど付いています」
つまり電話対応ではなくメールなどでの情報交換に対応しているのだ。
聖志が考えを巡らせていると,部屋の外が騒がしくなってきた。恐らく警察がまた調査に来たのだろう。
「すみません,私は警察の方々に説明しなければならないので」
「分かりました」
社長はそう言うと,警察をオフィスに入れた。
今日は星野は来ていない。代わりに棚丘警部補が何人かの刑事を束ねてきたようだ。
聖志はそれを横目で見やりつつ,寺岡の椅子に座る。
「…木塚のデスクはどれだ?」
藤井が呟く。
「社長室の方じゃないか?」
聖志がそう言うと,藤井は社長室の方へ行った。
───…試すか。
今思いついたことを試すことにした。聖志は寺岡が使っていると思われる,デスクの上のパソコンの電源を入れる。OSが起動すると左手でマウスを操作し,ダイヤルアップでリダイヤルする。
───と。
ピロロロロロロロ…
社長室で電話が鳴った。部屋にいた全員が一斉に社長室を見る。
しばらくするとFAXが動き出し,聖志が打った適当な文が印刷された。
───なるほど。
これなら係長の証言が事実であり,尚かつ彼が犯行可能なことが分かった。彼は8月12日,このパソコンから電話回線を使って秘書のデスクに据えられたFAXに例の文書を送ったのだ。しかも,社長が席を外した隙に。ここからならば社長室のドアが見え,更に係長や同僚からは何をしているのかがわかりにくい。
「聖志か,あれ送ったの」
藤井が社長室から出てきた。
「ああ」
しばらくすると数名の刑事も出てきてまた周辺捜査に戻ったようだ。
藤井は寺岡のデスクの側まで来る。
「何の意味があったんだ?」
「…物証が見つかった」
聖志は声を潜めて言った。
「何? どこにだ?」
「この中だ」
そう言いながらポケットからフロッピーディスクを取り出してパソコンのFDDに入れ,証拠であるテンポラリーファイル[i]をFDに移動する。
「さて,退散するか」
「…おい,これでいいのか?」
「ああ。証拠はすんでの所で俺達の手に渡った,それだけのことさ」
「ま,おまえが言うなら間違いないな」
2人は席を立ち,出入り口に向かう。
「あ,もうすんだのですか?」
入口には葉麻社長がいた。
「はい,ありがとうございました」
「いえ,私に出来るのはこのくらいですから。木塚君にも早く復帰して貰いたいんで」
木塚は葉麻の秘書である。社長のスケジュール管理は全て彼女がしているので,社長が単独で行動するのは難がある。一応今はお盆休みと言うことで落ち着いているが,仕事が始まると行動が制限されてしまう。
「木塚さんの身柄は高崎署の方なんで何とも言えませんが,我々も全力を尽くしております。もう少々お待ちいただきたい」
「…分かりました。では」
藤井の言葉に社長は頷き,部屋に入っていった。
エレベーターに乗り込む。
「…さっきの言葉はまずかったな」
「ああ」
社長に対して藤井が言った言葉である。自ら警察ではないという意味にとれてしまうような言葉を言ってしまったのだ。
「ま,社長も何とも言ってなかったからいいか」
「…あのな」