───8月16日。
聖志は昨日の夜からぶっ通しでしていた作業を一段落させた。壁にあるデジタル時計を見ると既に午前8時を回っていた。
「おはよう,お兄ちゃん」
夏休み中だというのに彼女は午前8時に起きてきた。
「おはよう。悪いけど朝食はまだ作ってないぞ」
聖志はディスプレイを見たまま彼女に言う。
「いいよ,今日は私が作るから」
美樹は聖志の疲れを読みとったのか,そう言った。
「悪いな」
「気にしないで」
聖志はお言葉に甘えて朝食を待つことにした。その間にテレビを付ける。
やはりまだJCSの事件を引っ張っている。マスコミは砂粒ほどの情報を岩のように大きく伝えるという特性を持っているので,あまり真に受けるべきではないようだ。が,取りあえず捜査状況は分かるので一応話を聞く。
───葉麻もいい迷惑だろうな…。
恐らく今頃は葉麻宅にマスコミが殺到し,母親はその対応に追われていることだろう。
話によると社長しか実行できなさそうな犯罪行程を,被害者の木塚雅子が話したという。…と。
「…この人,知ってる」
リビングのテーブルに簡単な食事を置き,そう言った。
「え!?」
美樹の口から出た言葉に,聖志は素で驚いてしまった。
「…本当か?」
「うん。…お姉ちゃんの友達」
美樹の言う姉とは,聖志の従姉妹に当たり,美樹の育ての親でもある神崎直美のことである。その友人であると美樹は言ったのだ。
「…電話してみようかな…」
「よしたほうがいい。今のところ俺達には何の関係もないからな」
「でも…」
「電話して,何て声をかけるんだ?」
「……そうだね。やめておくよ」
恐らく彼女は反射的にそう思ったのだろう。育ての親のことが心配である,と。
───木塚雅子か。
JSDOの規定を破るつもりは更々ないが,興味があるところである。
「あの人,大丈夫なのかな…?」
「心配するな」
―――相変わらず俺は偽善者か。
現状が分からない聖志は,それを言うことが精一杯だった。
今日も葉麻隆文は警察の取調室の中だ。
昨日のように,また恐らく同じことを何度も聞かれるのだろう。そう思っていると取調室の扉が開いた。昨日と同じ,棚丘警部補と長江刑事だ。
棚丘は目の前のパイプイスに腰を下ろした。気のせいか,少し昨日と表情が違って見える。
「喜ばしい知らせです。あなたの容疑は晴れました」
「!」
彼は目を見開き驚いた。アリバイは完全にないと思っていたのだ。
「近所の方複数が,あの時間帯にあなたの姿を見ているんです」
それは,新聞受けに行ったときと,ベランダの植物に水をやっている姿だったそうだ。
「つまりあなたはあの時間家にいて,会社での犯行は不可能でした」
「…容疑は,晴れたんですね?」
「はい」
葉麻は特に怒るわけでもなく,冷静に対処した。
その後,長江刑事は自宅まで車で送った。もちろんマスコミが集ってきたのは言うまでもない。
刑事課ではすぐに木塚を出頭させ,再度証言を求めた。しかし葉麻のアリバイが成立したと分かると,途端に証言が二転三転しだした。
星野は偽証の可能性があると考え,もう一度事件を洗い直すことにした。
第1発見者の用務員に再度コンタクトを取り,もう一度状況を話して貰った。しかし前回話したものと同様だった。つまり,この証言が間違っている可能性は低い。メモしたものと比較しても相違点はない。オフィス内を掃除していたら社長室の警報器が鳴ったというものである。
そして木塚の素性を知るため,彼女の友人知人に最近の彼女の行動について尋ねる。もちろん,友人である神崎直美にも同様の質問をした。しかし特に不審な点は見あたらない。社内での評判も決して悪くない。彼女は真面目であるようだ。
───AM11:49。
ぷるるるる…
リビングで電話が鳴っている。聖志は只今料理中。
「美樹,悪いが出てくれ」
彼女はパタパタ走って受話器を取る。
「もしもし」
「もしもし,棚丘です」
「…は,はい?」
いつもは聖志が取るので,棚丘はそのつもりで挨拶してしまったのだ。美樹は戸惑っている。
「あの,西原さん?」
「あ,少しお待ち下さい」
美樹は彼の返事も聞かずに保留ボタンを押す。その間に慌ててパタパタとキッチンまで行くと聖志に話した。
「…待たせたな,棚丘」
「あ,西原さん」
「すまないな,手が放せなくて,妹に取らせて」
「そうだったんですか。実は,その妹さんにお尋ねしたいことがあるのです」
棚丘は,仕事のことになると少し口調が堅くなる特徴がある。それを察した聖志は,
「分かった。どこでだ?」
「…出来れば署がいいんですが…」
「OK。少ししてから行く」
「恐れ入ります」
取りあえず昼食をすませてから行くことにした。
「美樹,さっきの電話なんだけど」
「うん」
「少し尋ねたいことがあるらしいから,高崎署まで行ってくれないか?」
「…私に,聞きたいこと?」
「ああ」
「どうして警察がわたしに…?」
少し不安そうな顔を向ける。
「ま,それは向こうへ行ってからだな。俺も行くから心配するな」
───PM2:37,高崎署前。
聖志は自分の車で美樹を連れてきた。
慣れている聖志は警察署内を迷わずに刑事課まで行き,ドアを開ける。当然の如く入った聖志だが,いたのは棚丘警部補だけだった。
「お待ちしてました。取りあえずこちらへ」
彼は笑顔とともにそう言って,刑事課の隣にある来賓室へ美樹と聖志を通す。横目で見た限り,美樹は少し緊張しているようだ。
「どうぞ」
棚丘は席を促した。
美樹と棚丘は取りあえず顔見知りである。宇部誘拐未遂事件で世話になったのだ。
「俺はいてもいいのか?」
「ええ,気にしないで下さい」
美樹は何かわからないという顔をしているが,JSDOに所属している聖志は基本的には警察の部外者なのでこういう場に立ち会わない。
棚丘は机を挟んで反対の,窓側の席に座った。
「では。…初めましてではありませんね」
彼は美樹の緊張がわかるのか,軟らかい表情でそう言った。
「はい,あのときに助けていただいて…」
少し頭を下げ気味に,恥ずかしそうに言った。
「あのときのお友達とは,うまくいってますか?」
「ええ,お陰様です」
その後10分ほど,棚丘はあのときの事件の経緯や,聖志の行動の様子などを面白そうに話し,美樹も次第にリラックスしていった。棚丘はこういうことにかけては右に出る者はいない。
「それで今日お呼び立てしましたのは,神崎直美さんの友人の木塚雅子さんについて,聞きたいことがあったんです」
「…はい」
幾分緊張した感じが伝わってくる。
「木塚さんのことは知ってますか?」
「はい,何度か会ったこともあります」
「どんな人ですか?」
「え…」
まるで見当違いな質問をされたように美樹は意外そうな返答をし,聖志の顔を見る。
「西原さんもご存じですか?」
「いや,俺は知らないな」
そう,全く見識はない。
「そうですか。…美樹さん?」
「あ,えっと…とても優しい人です」
「優しい…というと,どんなところが?」
美樹は,育ての親である神崎直美が病気で寝込んでいるときなど,家に来てはいろいろと世話を焼いてくれたことなどを話した。
聖志も会ったことはないが,彼女がそう言う限り,美樹に対しては本当に優しいのだろう。
恐らく棚丘の意図は証言者の性格を知ることで,その証言の信憑性を図ろうということなのだろう。つまり,偽証の有無の確認である。
「…わかりました。では最後に一つ」
「はい」
「…彼女は,嘘を付いたことがありますか?」
「いえ,ありません」
真摯な眼差しで美樹は返答した。
「そうですか,わかりました。ではこれで終わります」
棚丘はそう言って立ち上がると,挨拶した。
刑事課の出口まで彼は見送ってくれた。今日は刑事課の連中は出払っていて,係長しかいなかった。
「では,西原さん」
彼は敬礼した。
「ああ……」
聖志はそう言って行きかけたが立ち止まり,
「…一つだけ,質問だが」
「はい」
「木塚はシロなのか?」
彼はまっすぐに廊下の突き当たりを見たまま,棚丘に尋ねた。
「…」
その沈黙は,3秒続いた。
「…そうか」
聖志はその返答を受け,
「では,また」
「はい」
美樹と聖志は廊下を歩いて行った。
「…申し訳ない」
棚丘はそう呟いた。