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───8月15日。

中途半端な時間に目覚めた聖志は取りあえず軽い昼食兼朝食を摂り,普段着に着替えてマンションの下まで新聞を取りに行くことにした。

このマンションはエレベーターがないので少々面倒だ。慣れた階段を1段飛ばしで降りてポストまで行くと,ちょうど美樹が友人の家から帰ってきたところだった。一昨日,昨日と友人の家に泊まっていたのだ。

「お帰り,美樹」

「あ,お兄ちゃん。只今」

彼女は微笑んだ。さすがに疲れたのか,いつもの優しげな笑顔が微妙に崩れている。

「…寝てないだろ」

「あ,やっぱりわかっちゃう?」

少し恥ずかしげに左頬の辺りを押さえる。

「まあな」

そう言いながら聖志は彼女のお出かけ鞄を右肩に掛け,新聞を持って二人の部屋に上がる。

彼等はまだあのマンションに住んでいる。あの事件解決以来,特に刺客が襲ってくるわけでもなく平穏無事な生活が出来ている。しかしやはり場所は公開するわけには行かないので,友人は1人も呼んだことはない。

「何か食べたのか?」

リビングで彼女の鞄をどさりとソファに置く。

「あ,うん。由利[i]ちゃんの家で食べちゃったから」

「…由利って言ったら,確かあの言葉遣いの丁寧な…?」

「そうそう,よく覚えてるね。あの子の家でね…」

美樹は疲れ顔ながら表情を弾ませて嬉しそうに話す。よほど楽しかったのだろう,起こった出来事などを一通り話してくれた。

話によると,美樹は佐倉春奈[ii],立川佳美[iii]と一緒に安藤の家に泊まったらしい。安藤の父親は内科医,彼の従兄弟がJCSの社員で,母は何と婦警なのだそうだ。彼女が小さい頃から両親が働いているので一人っ子の由利は自分で何でもしなければならず,それ故に彼女自身も精神的に自立している。それが性格に反映して,あのような完全なお嬢様になったようだ。

「お兄ちゃん,会ったことないかな。高崎の警察署で働いてるって言ってたけど」

「…俺は知らないな。多分交通課だと思うけど」

恐らく彼女のことだから余計なことは言ってないだろう。美樹がこちらに来た当時は,自分でも少し嫌になるくらい注意したものだ。

「会ったらよろしく言って…あ,言えないか」

彼女は慌てて口を押さえる。その愛らしい仕草に聖志は笑った。

その後30分ほど話すと,美樹は眠い目をこすりながら寝室へ引っ込んだ。

聖志はテーブルの上に置いた新聞に目を通す。…と。

───ん?

『JCS社長,葉麻隆文氏を事情聴取』

とあった。記事によると,どうやら昨日テレビで言っていた秘書の殺害未遂事件の延長らしい。ま,秘書が襲われたとなると真っ先に疑われるのは社長だ。それは定石である。しかし,可能性が全くないとは言えないのだ。

───気になるな…。

聖志はいつもの癖で調査したい気分に駆られるが,JSDO[iv]規定の中に,指令がないときは待機しておかないといけないという決まりがあるのだ。こういう機関は規定が命だけに,それを逸脱する行動は避けなければいけない。

───もう少し様子を見るか…。

彼はそう思い直して無為な時間を過ごすことにした。

 

───PM3:49。

ぷるるるるる…

電話を取る。

「はい」

「俺だけど」

気怠そうな声に相手が誰だか一発で分かる。

「藤井か,久しぶり」

「ホントにそうだな。出てこないか?」

「なんで?」

「気になることがあって」

「OK。じゃあ学校でいいか」

「ああ」

いつもの会話のあと,聖志は受話器を置くと寝ている美樹に置き手紙をして家を出た。

彼のマンションは学校からほとんど離れておらず,歩いて5分も掛からない。

照りつける太陽の中を彼は歩いて学校へ向かう。夏期休業なので基本的に休みだが,クラブ活動のために学校へ出てくる生徒も多い。聖志は正門を使わずに,体育館の近くにある抜け道を使う。ここを使うと正門へ行くより約3分は節約できる。

体育館の扉や窓は全て開けられ,中ではバレー部やバスケ部などが練習しているようだ。威勢のいい声が館内から響いてくる。

いくら何でもここでする話ではないので,藤井が来るのを待って校舎内のPCルームへ入った。

まるでサウナの如く洒落にならない暑さの閉め切られた部屋。当然窓側にあるクーラーを電光石火の勢いでつけ,ダイヤルを一気に全開に持っていく。

「全く,何でこんなに暑いんだ」

曲がりなりにも教師である藤井がTシャツ1枚にジーパン姿で学校へ来ているにも関わらず,こんな贅沢を言っている。

暫くすると,ようやくクーラーが効き始めた。ひんやりした空気が頭上から吹き付ける。

教師用のコンピュータの前に座る聖志。彼の指定席となっている。

「それで,気になることとは?」

聖志が切り出した。

「お前も知っての通り,葉麻隆文が殺人未遂事件の参考人として連行されただろ」

彼は教師用PCの正面にある席に座る。

「ま,それぐらいは知ってるが」

「あの事件の担当者は星野警部[v]だそうだ」

「星野か…って,何で知ってる?」

「本人に直接聞いた。昨日の帰りにばったり会ってな」

「なるほど。しかし今回はまだ本部長から指令が来てないからな,俺の使命はない」

「俺も来てないが,何か気にならないか?」

「それは俺も気になってる」

以前の事件からそんなに間もないのに,また葉麻隆文の周りが殺気立っている。偶然と言えばそれまでだが。

「ま,俺等が気にしたところで仕方がない。いつも俺達が出しゃばってたら警視庁の存在意義がなくなる」

「…そうだな。俺も派手な動きは避けよう。それで」

「ん?」

「本題に入るが」

「本題?」

てっきり事件の話だけかと思ったら,何かまだあるようだ。

「ああ。…お前,化学の授業サボった分課題があるんだけど」

「なんだって?」

聖志は正直驚いた。

「職員室に溜まってるから取ってくる。ちょっと待ってろ」

「おい,また紙の無駄遣いか」

「運命だ,諦めろ」

そう言って藤井は出ていった。授業をサボったというのは心外で,事件の調査のために割いた時間である。しかし学校側に示しを付けるためにはそういったことをしなければならないようだ。

あの事件以来中央学院は新しい校長が就任し,教頭には岡田教諭が繰り上がった。そのお陰で学校運営はすっかり回復,それ以上の成果を上げ,PTAや県教育委員会にも取りあえず示しが付いた。

あの事件で逮捕されたのは総勢33名に及ぶ。そのうちの7人がこの学校の教師であり,校長を始め,教頭,他5名の教諭,そして小倉太郎元文部大臣が裁判待ちとなっている。それ以来文部省も人事構成を変え,新たな運営に乗り出した。

被害者の大嶋水穂も現在は中央学院の校医として,また保健室に通い詰めている。聖志もたまに口を利くが,あの当時からでは考えられないほど明るく,本来の彼女に戻ったようだ。彼女の父である大嶋淳次も肺ガン手術後,快方に向かっているらしい。春先の球技大会と引き替えの解決となったわけだが,結果的に元を取った以上の効果があったのだ。

───代償としては安いもんだな。

そう思っていると藤井が帰ってきた。1冊の冊子を持って。

「これだ。ちゃんとやっとけよ,そうしないと俺の立場がない」

藤井は完璧に事務口調でそう言った。

「分かった。じゃあ俺は帰るぞ」

「ああ。俺は仕事があるから」

聖志はその藁半紙製の冊子を持って,1階へ下りる。誰もいるはずのない昇降口まで行くと,どこかで見たような顔がしゃがんで靴を履いていた。

「…中槻[vi]か?」

「ああ,西原か。何してんだ,こんな所で」

何か探りたげな目で彼は聖志を見上げる。

あの事件の後全てを話し──もちろんJSDOのことは黙っているが──,中槻とは取りあえず友人として付き合っている。彼は聖志に対しては特に飾らないが,女子と話すときには声色まで変えるという強者である。

「少し用があってな。お前は?」

「今日は地質の調査」

言いながら彼は靴ひもをぎゅっときつく結ぶ。

「よくやるな,こんな暑いのに」

「好きでやってることさ」

「じゃ,俺はこれで」

「ああ。またな」

2人はそう言って別れた。

―――物好きな奴。

 



[i] 本名安藤由利。新宇部学園の1年生。美樹の友人で

その性格は礼儀から趣味まで完全なお嬢様。

[ii] 新宇部学園1年で,美樹の友人。類は友を呼ぶので,高倉とも友人である。

[iii] 新宇部学園1年で,美樹の友人。安藤とは小学校からの親友。

[iv] 日本極秘工作員派遣機関Japan Secret maker Dispatch Organizationの略。

国家公安委員会の直下にあり,警察庁警備局とは別の諜報機関。

[v] 舞の父親で,聖志の育ての親でもある。

現在高崎署で警部をやっており,以前の事件でも活躍した。

[vi] 中央学院2年で,現トレジャーハンター。

以前の事件で少しだけ絡んだが,結果的に無関係になった。