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───6月30日。

「昨日,車の盗難があったって言ってたな?」

「ええ」

高崎署刑事課。

「盗まれたのは葉麻隆文の車ではないか?」

鍵川は報告書に目を通し,目を見張った。

「…そうよ」

「鑑識課からの報告は?」

彼女の疑問を取りあえずさしおき,確認を取る。

「はい,あの吸い殻は葉麻隆文の指紋と一致しました」

「OK」

聖志は満足げな笑みを浮かべる。

「もう一度,その車を細部まで調べてみれば犯人が浮かんでくる」

彼は確信を持って言った。

「盗難車は今何処?」

鍵川が尋ねる。

「はい,署の駐車場の方にありますが」

「早速調査して」

「分かりました」

近くにいた刑事数名がそれに向かう。

「…それで,長瀬の遺体の件はどうなった?」

「まだ。全然情報がないのよ」

「…やはり,警視庁へ直接行った方がいいのかな」

聖志はそう考えた。

「同じじゃないかしら。遺体を引き取ったのは警視庁でも,直接調べたのは向こうの警察よ」

つまり,遺体を最初に調べたのは中国側の警察なので,遺体に関する情報を握っているのは中国警察である。いくら警視庁に行ったところで情報が行き渡っていなければ無駄である。

───ちょっと試すか。

「ちょっと,今何考えたの?」

目つきが変わった聖志を見て鍵川が言った。

「別に。池和,葉麻隆文を事情聴取お願い」

「分かりました」

「それと,車から物証が出たら連絡くれ」

「はい」

「じゃ,俺は帰る」

彼はそう言うと刑事課を出て署を出た。それから自分の車を発進させ,自宅へ帰る。

40分後,ようやく自宅に到着。と同時に凄まじい眠気が襲ってきた。何しろ昨日は一日中駆け回ったあげく,今まで脳味噌がフル回転していたのだ。眠くならない方がどうかしている。

彼は只今と言うのも忘れて玄関で適当に靴を脱ぐと,おぼつかない足取りでリビングへ向かう。

聖志はさっき試そうとしたことをメモに書き,テーブルの上に置いておき,ソファに横になると一瞬のうちに夢の中へ沈んだ。

 

「…ちゃん,お兄ちゃん!」

誰かの声に呼ばれ,尚かつ体が揺れている。

聖志は頑固な瞼を無理にこじ開けた。

「…美樹か?」

彼は辛うじて声を出した。

「うん。…大丈夫?」

気が付いてみると,美樹が顔を覗き込んでいた。

「…ああ,おはよう」

「おはようじゃないよ。今帰ったばかりなのに」

目の前の彼女は少し呆れ顔だ。

「…どうしちゃったの,こんな所で寝るなんて…」

聖志は取りあえず上半身を起こし,周りを見る。まだ制服の美樹が心配そうにしている。

「ああ,ちょっと昨日夜更かししすぎて。それより着替えて来い」

「あ…うん,分かった」

彼女はそれでも聖志を気にかけながら自分の部屋に入る。聖志はまだすっきりしない頭を左右に振って無理やり起動させる。と,視界の端に入った時計を見るとPM4時を指していた。

───7時間ほど寝たか…。

それでも最近では一番長く休んだ方だ。ここ1週間はほとんど2,3時間の睡眠しか取っていなかったのだ。それに慣れていたので,長く寝過ぎたと思ったぐらいだ。

彼は早速仕事に移ろうと立ち上がる…

グラッ…

視界が歪む。

平衡感覚がつかめない。

体に力が入らない。

───どうしたんだ,俺?

意識だけははっきりしているのに,体が言うことを聞かない。よろよろと立ち上がった聖志はバランスを崩してその場に跪く。

「くっ…!」

立ち上がろうともがくが,足が動かない。平衡感覚を失い,そのまま床に倒れた。

「えっ,お兄ちゃん,どうしたの!?」

それを見た美樹は驚いて駆け寄ったが,聖志にはその声がはっきりと聞こえなかった。

 

額に冷たい感触。少し濡れているのが分かる。

「じゃ,後は頼んだぞ」

「うん」

どうやらベッドに寝かされているようだ。薄い布団を掛けられ,背中には汗をかいているのがわかる。誰が俺を運んだのだろう…?

―――そういえば,俺にはすることがあったような気がする…そうだ,中国大使館にアクセスしないと。そこから中国警察本部へ侵入し,あの事件のデータを全て持ってこないと。…あと,葉麻の車から何か出たのだろうか。連絡よこせって言ったはずなのに,全く音沙汰なし。どうなってるんだ。

一旦回転しかけた脳味噌がエネルギー切れで停止し,聖志は再び深い眠りについた。

……

───!

聖志はいきなり目が覚めた…と,見たことのない天井。

───どこだ?

そう思って左に首を回す。壁の方には防弾チョッキを何着か納めてあるロッカー,拳銃を納めるホルダー,それを見ていつもの寝室であることに気付く。ただ,天井をじっくりと見たことがなかっただけなのだ。

「…気が付いた?」

と,後ろから声がする。美樹の声にしては何か違う気がする…そう思いながら首を右側に回す。

「…お前,何でここに?」

「聖志が倒れたからじゃない?」

そこには,心配そうな表情を少し和らげた舞がいた。なぜここにいるのか,どうやって入ったのか,全く分からない。

「だいじょぶ?」

彼女はそう言って額のタオルを取り,熱を計ろうとする。

「そんなので分かるのか?」

「ある程度は」

さも当然のように彼女は額に手を当て,彼はその様子を眺める。

「ん,大分よくなったね」

「…俺は…どうなったんだ?」

聖志は最初の疑問を口にした。

「…倒れたの」

「いつ?」

「昨日,向こうの部屋でね」

昨日のことは曖昧にしか覚えていない。何かしなければならないことをする前に寝たような記憶はあるが,そこからは,ただ美樹の顔が浮かぶだけで,何があったか分からない。

「…じゃ,7月に入ったのか…?」

「そう」

「…そうか」

「…他に聞きたいことはない?」

舞は少し微笑んでそう言った。

「それじゃ…」

聖志はかなりの量の疑問を解消すべく,まだしっかり動かない口を懸命に動かした。

最初にこの事態に遭遇したのは当然美樹である。兄がいきなり倒れたので彼女も平然としていられるはずはないが,徐々に冷静になった美樹は電話口にメモしてあった番号にダイヤルした。それは高崎署刑事課への直通番号だったのだ。最初に電話に出たのは内田刑事で,相手が聖志の妹だと分かると,彼等の関係を把握している星野警部に直接自宅へ向かうよう頼んだ。聖志宅へ到着した彼は取りあえずベッドまで聖志を運び,応急処置をした後,美樹に看病を頼んで自宅へ帰った。しかし美樹を,完治するまでずっと看病に付けるわけには行かないので,学校が休校状態になっている舞に看病を頼んだのだそうだ。

これが,昨日から今朝にかけて起こった出来事である。

「…世話をかけたな…」

「仕方ないじゃない。お互い様よ,こういうときは」

リビング側の壁にある時計を見ると,まだ午前9時を過ぎたところである。

「それにしても…」

「ん?」

「美樹ちゃんが電話してくれなかったらどうするつもりだったの?」

彼女の口から美樹の名前が出ることには予想が付かなかった。

「…そうならなくてよかった。彼女にとんでもない迷惑をかけるところだからな。全く,頼り甲斐のない兄貴だな」

少し自嘲気味に笑う。

「…でも,彼女賢そうだし,よかったじゃない」

「…そうだな」

「それより,どうして紹介してくれなかったの?」

「…美樹をか?」

「そうよ」

どうやら舞は彼女の存在を知らなかったようだ。彼女の父親は知っているはずなので,てっきり知っているとばかり思っていた。

「…お父さんは知ってたみたいだけど」

「俺は知ってるものだと思ってたんだが…悪かったな」

「あ,ううん,別にいいんだけど…可愛いね,彼女。お友達になろうかな」

彼女の表情からして本気のようだ。

「…あまり会えないと思うが,それでもいいなら友人になってやってくれ」

「どうして,会えないの?」

「それは…」

それは,彼女が聖志の正体を知っていれば簡単なことなのだが…。

「彼女は新宇部学園の生徒だ」

「ホントに? じゃあ行き違いになっちゃうのか…」

取りあえず別の理由を発見できた。

「…それより,忠志さん何か言ってなかったか?」

「え? …あ,ああ,お父さんね。…別に何も」

いきなり父の名前を言われて,思い出すのに時間が掛かったようだ。

「…そうか」

「それにしても,一体何したの? 倒れるなんて異常よ」

当然の疑問だろう。家の中で倒れるのはどう考えても変だ。しかし,この質問に答えるとなると,仕事のことを話さないといけなくなる。

───さて,どうしたものか。

プルルルルル…

と,都合のいいタイミングで,リビングの電話が鳴った。

聖志が起き上がる。

「あ,私が出るから」

聖志は彼女を手で制してベッドから下りる。まだふらつく体を手で支えながらリビングまで移動し,電話を取る。

「はい」

「聖志か?」

「お前か,どうした?」

「どうしたもこうしたもないだろ,倒れたって聞いたから」

電話の相手は藤井である。

「大したことはない」

「…星野さんから聞いたけど,彼女,いるのか?」

彼女とはもちろん舞のことだ。

「ああ」

「じゃあ仕事の話はまずいな」

「そうだな,またあとにしてくれ」

「…分かった。無理はするな」

「OK」

聖志は早々に電話を切る。と同時に舞がリビングへ来る。

「…大丈夫なの?」

「ああ,心配するな。歩けないことはない」

「…だったらいいけど,無理はしないで」

「分かってる。…さんきゅ」

さり気なく礼を言うと,舞は微笑んだ。

───PM1:00。

取りあえず聖志は普段着に着替え,間に合わせの昼食を舞と共に摂っていた。

「ただいま」

玄関で声がして,すぐにキッチンのドアが開く。

「お帰り」

「お兄ちゃん,もういいの?」

鞄を持ったままキッチンに入り,美樹が言った。

「ああ,心配ないよ」

「よかった…」

「お前にも世話かけたな」

聖志は舞に聞かされた話を思い出した。

「え,わたし何もしてないよ。看病してくれたのは舞さん」

「何言ってるの,美樹ちゃんが連絡してくれなかったらどうなってたか分からなかったわ」

舞は微笑みながら美樹に言った。

「それはそうと,昼御飯は食べたか?」

「うん,今日は友達と食べたよ」

「そうか,じゃあ着替えてこい」

「うん」

美樹は頷くと,自分の部屋に行った。

2人は食事が済むと,リビングでくつろいだ。

「美樹ちゃんの部屋はどこなの?」

「ああ,そこの扉」

聖志が指さすと,彼女はノックして入った。舞が言ったとおり,親睦を深めるのだろうか。

それはともかくリビングが無人になったということは,チャンスである。

聖志は早速電話の短縮を使う。

何回かコールしたあと,

「もしもし」

「俺だけど」

「聖志か,彼女はいるのか?」

「ここにはいない」

「そうか。さっきの話をするか?」

「ああ。頼む」

すると,電話の向こうでメモをめくる音がする。

「実は,ここ2,3日中槻が動いている。頻繁にあのドアの所へ行ってるみたいだ」

「タイミングのいいことだ」

「まだ開いてないと思うが…早めに対策を立てた方がいいんじゃないか?」

「…しかし,これはあまりしたくないが,考えようによっては奴を利用することもできる」

「…ドアを開けさせるのか?」

「ああ。俺達が説得したところで,素直に応じるとも思えない。ならば勝手にやらせておいて,不法侵入罪を盾にすればこちらが断然有利だ」

しかし,この手段は諸刃の剣である。当然中槻には不法侵入罪がかかるだろうが,こちらは職権乱用の罪に問われることとなる。いくらJSDOとはいえ警視庁と手を組んでいる以上,軽率な行動を取ることは望ましくない。

「それは最後の手段だろう?」

「当然。うまく行けば,あのドアを開けずに済むかも知れない」

「俺としてもそっちの方がいいからな。面倒なことがなくなる」

つまり,今回の事件の犯人さえ分かれば,特に中槻を追求する必要もなくなってくる。

「それはそうと,あの吸い殻は誰のものだったんだ?」

「え? 吸い殻?」

聖志はすっかり忘れていた。あの調査から1日以上経っているので,藤井に報告するのを忘れていた。

「…あ,あれか。葉麻隆文のものだ」

「ホントか? 実はな,この間の調査のときに逃走した不審な人物がいただろ?」

「ああ,確かいたな」

「恐らく奴が落としたと思われる十円玉の指紋から明らかになった。あれは葉麻隆文だ」

「…そうか」

聖志はこれらの情報を繋げた。

「だから,葉麻隆文はあの部屋に吸い殻を残し,それを回収しようと来たところ,俺達の調査と鉢合わせし,その結果俺達に見つかって逃走したというわけだ」

「ま,そうだな」

聖志は取りあえず返事をする。

「つまり彼は何回かあの部屋に入っていると思う。あのときお前が言ったみたいに,やはり何回か人が入った形跡があったのは,彼のせいだな。しかもあの部屋には通信設備はもとより,コンピュータシステムもある。葉麻隆文が研究所へ侵入するなら,あの部屋からアクセスすれば一発じゃないか」

藤井は少し興奮気味に言った。確かに,あの状況を見れば葉麻隆文が実行犯である確率はかなり高い。葉麻自身がコンピュータを使えば研究所のシステムへ入ることなど大したことではない。何しろ自分自身が設計したのだから。

「だが…。いや,またあとで」

美樹の部屋のドアが開いたので,聖志は一旦話を切り上げた。

「あ,お兄ちゃん,もういいの?」

「ああ。…どこか行くのか?」

「うん,ちょっとお買い物に。舞ちゃんにも付き合って貰って」

あとから出てきた舞は嬉しそうに頷いた。

「そうか,気を付けて」

「はーい」

聖志はこの機を逃すことはないと思い,適当に書き置きを残して,星野警部と藤井を公園に呼びだした。

公園は,以前事件のあった教会の隣である。写真を撮影するために意図的に空き地にしてあるが,普段は公園として管理されている。

聖志は池の近くのベンチに座り,缶コーヒーを一口飲む。日陰に吹く風が心地よい。

「もういいのか,聖志?」

公園前までバイクで来た藤井は,普段と変わらない顔でそう言って聖志の隣に座る。

「多分な」

「…星野警部はまだか?」

「ああ」

そう言っていると,向こうの方から彼が走り気味に来た。

「遅れました」

「いや,気にするな」

聖志は2人に缶コーヒーを手渡し,早速話し始めた。

「さっき藤井に聞いた話では,葉麻隆文があの部屋に行っていたことは明らかのようだ。ま,それは間違ってはいないと思うが」

「はい,私も昨日夜に藤井さんに呼ばれてあの場所へ行きました。そこで物証となる十円玉を見つけたんですが,実は葉麻隆文はアリバイがあるのです」

「アリバイ?」

「ああ。これは確か,内田に頼んだと思うけど」

「そうです。内田刑事が葉麻宅へ調査に行ってます。証拠は留守電のテープです」

「しかしその系統のものは証拠にはならないんじゃないのか?」

声紋のみのテープでは物証とはならない。

「だが,実際に存在するものを無視するわけにはいかない。しかし,藤井の言うように葉麻隆文があの部屋に行ったは確実だ。だが,行ったのはあの日だけだ」

「あの日? 俺達が行った日か?」

「ああ」

「何故そう思うんだ?」

「…ここからは全く私見だが…あの日葉麻は,教頭たる能島にあの部屋へ呼び出された。理由は分からない。俺達が発見した煙草の吸い殻の回収かも知れない」

「…じゃあ,俺達がいたのはただの偶然だったというのか?」

「ああ。もしくは能島が予想したのかも知れない。もし能島がコンピュータで俺とぶつかった本人だったとすれば,時間から考えてその日の夜,あの部屋に俺が行くと考えたのかも知れない。そこに偶然とはいえ葉麻本人が行けば,あの状況から藤井が考えたように,葉麻が実行犯かも知れないと疑ってしまう」

「…なるほどな。だが,能島の物証がない。しかし葉麻はある」

「だから,それを待っているところだ。星野警部,あの盗難車から何か出たか?」

一昨日,盗難車から能島の物証を見つけることを頼んだのだ。

「まだ何も」

「そうか…。ま,時間の問題だな」

「…まだ話の全貌が見えないんだけど…」

藤井がコーヒーを飲んでから言った。

「何だ,盗難車ってのは」

「俺が研究所へアクセスした日に葉麻の車が盗難された。それを盗難した犯人が能島であれば,奴が犯人である可能性が高くなる」

ここで言う犯人とは,聖志とコンピュータ上でぶつかった人物である。

「しかも盗難容疑で連行できます」

「…そういうことか。それで,その車は何処にあったんだ?」

「長瀬宅の近くの林に乗り捨ててあったそうだ。…現在能島は何処に?」

聖志は星野に尋ねる。

「学校の方へ行っている長江刑事の話では,昨日ようやく学校の方に戻ったらしいです」

能島は修学旅行の関係で中国へ行っていたらしい。理由はどうあれ,中国へ行っていたということである。

「…ま,能島が高崎署へ行くのは時間の問題だな」

盗難車から能島の指紋が出れば,取りあえず盗難容疑で連行されるのは間違いない。これが,能島を連行するための,現段階での唯一の確証である。あとは葉麻隆文が真実を語れば能島は刑務所行きである。

と,星野警部の携帯が鳴った。

「こちら星野。…分かった」

彼は短く言葉を切って,

「そろそろ時間なので,私はこれで」

「待て,星野」

聖志は立ち上がった彼を呼び止めた。

「なんですか?」

「…舞に俺のことを言ったのか?」

舞自身にこれを尋ねるわけにはいかないのだ。

「いえ,言ってません。ただ,あの処置は致し方ないかと」

「…そうだな,よく考えると警部は恩人だな。失礼な言い方をした」

署へ連絡が行ったあと,最初に聖志の自宅へ駆けつけたのは彼なのだ。

「仕方ないですよ。では」

「ああ,呼びつけてすまなかったな」

「いえ。では失礼」

彼は一礼してから足早に公園を立ち去った。

「…そろそろ潮時だな,能島」

藤井が呟くように言った。

「そう願いたいものだ」

 


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