───PM7:50,高津駅前。
ちょっと早く来すぎたと思ったのだが,歩いて行くにはちょうどいいだろう。
聖志は昼間来た駐車場に車を停めると,地下街から長瀬宅へ向かった。
まだ勤務先から帰ってくるサラリーマンで地下街は賑わっている。とは言えほとんどの店は閉店している。その中を聖志は新興住宅地の方向へ行く。地下街からは一度行ったきりなのでよく思い出しながら足を進める。
地下街から出ると駅近くの明るさがなく,住宅街の街灯だけが頼りとなった。街灯も何十メートルか置きにきっちり並んでいる。やはり計画性のある住宅街は見てて気持ちいい。
夜闇に浮かび上がる長瀬の豪邸は,ある意味神秘的でもあるが不気味でもある。あの事件以降来ていないが,なかなかどうして正門や塀は綺麗に保たれている。誰かが掃除をしているのか,あるいは元々掃除が行き届いていたのかは知る由もない。
───俺の自宅にしてしまおうか。
無人の家ほど存在意義のないものはない。本来なら親戚か誰かがどうにか処分するはずだが,長瀬には親戚はいないのか,はたまた見放されてしまっているのかは分からないが,この家に訪れるものはいない。今は警察の方が現場保存のために一時的に所有しているが。
正門の近くまで来ると,大きなバイクが一台止まっている。恐らく藤井が乗ってきたのだろう。
───あいつ,見つかるじゃねーか。
周囲の住民が見たらどう言い訳するのだろう。
聖志はそう思いながら正門を押し開ける。藤井が中にいるのだろうか,鍵は掛かっていない。
家の方の電灯は点いていない。どうやら本宅には入っていないようだ。聖志は広い庭を横切り,本宅の裏へ回る。裏側は街灯の光も届かず,本当に暗闇である。
「藤井,いるか?」
「…ようやく来たか」
向こうの方で声がする。よく見ると,この前捜査に来たときに疑問だった小部屋の前でなにやら試行錯誤している。
「何してんだ?」
「見てわからんのか,鍵をだな…」
「…お前,鍵持ってないのか?」
聖志は呆れ顔。
「お前は持ってるのか?」
「いや」
「なんだ,それ」
藤井は何回か失敗したものの,扉の鍵を開けることに成功した。
「俺は以前からここがずーっと怪しいと踏んでるんだが…」
入口付近の電気のスイッチを入れ,藤井はそう言った。
「ま,怪しくないって言う方がどうかしてるな」
この間来たときと同様,コンピュータやら無線機が並んでいる。壁は防音加工が施してあり,この部屋に窓はない。唯一あるとすれば,今入ってきた分厚いドアの上部に申し訳程度に付けられた,覗き窓だけである。
床はパネルタイプの絨毯が敷かれている。ここを使用していたものは土足ではこの中に入らなかったようである。
機材は壁沿いに誂えてある長い机の上に全て載っている。恐らく同時に複数の機材を使用していたのだろう,椅子が3つほどしかない。無線機が数台あるが,部屋の外に無線機用のアンテナは見あたらなかった。
「藤井,何でここが怪しいんだ?」
「…何かおかしいだろ。ここだけ家と違っているっていうことだけでも」
「まあな」
具体的な点はないが,藤井の勘がそう言っているのだろう。
藤井は部屋のあちこちを物色している。
機材の他に左側の壁には本棚とおぼしき棚がある。しかし警察が処置したのか,取っ手のところが鎖と南京錠で厳重に鍵をかけられている。
───何もあそこまでする必要はないと思うが…。
そう思いながら聖志はその鎖に触れる。…と,奇妙な感じがした。
「ん? どうした?」
聖志の背中の方から藤井の声がする。
「いや……ここに最後に人が入ったのはいつだと思う?」
「…そりゃお前,この間の事件の時に捜査官が入ったきりだろう?」
───確か,あの事件は6月22日のはずだ。
聖志は腕時計を見る。文字盤の中央にデジタル表示で6月29日と出ている。つまり,最後の捜査の日から少なくとも1週間は経っているはずだ。にも関わらず,何か生活感めいたものが部屋の中にあるような気がしてきた。
妙に光っている机。角度が変えられ,使いやすいように配置されたコンピュータのキーボード。本来なら毛が立っていないとおかしい絨毯。そして一番最初に藤井が入れた電灯の電源。捜査の日に本宅側で主電源を落としてあるはずなのに何故点いたのか。
「おい,聖志!」
突然の藤井の声に聖志は振り返る。
「これ見ろ!」
コンピュータと無線機の間の陰に入っていて見えなかったが,そこには灰皿があった。しかも吸い殻つきだ。
「…捜査官がこんなものを残すはずないんじゃないか?」
吸い殻をよく見ると,さっきまで煙を吐き出していたかのような,まだ新しい感じがする。
「ということは,誰かが出入りしているということか」
2人は顔を見合わせた……と!
ガキッ!
ドアの外で物音がした。
反射神経の人一倍いい藤井がいち早く物音の方へ走る。
「待て!」
藤井は聖志が止めるのも聞かず,何者かが逃げ去った方向へ走る。暗闇の中を藤井は本宅と離れの間を表側に回り,広い庭を走り抜けたところで見失ってしまった。恐らく正門からどちらかの方向へ逃げたと思われるが,見失った以上追跡するのは無駄である。
「ちっ!」
「どうだ?」
慌てて藤井を追ってきた聖志が尋ねる。
「いや,逃げられた」
「そうか。ま,正体はいずれ分かるさ」
「…どういうことだ?」
「全てはあの部屋だ」
それから2人はまたあの部屋に戻り,探索を始めた。
取りあえず吸い殻は重要な物証なので,袋に入れて高崎署の鑑識課に回すことにした。
「聖志,ここの機材は動くのか?」
「そりゃ,電源が入っていれば動くだろう」
「…長瀬はここで何をしていたんだ?」
それは誰にも分からないが,
「ま,まともなことではないことは確かだな」
「それは分かるが…」
ここは恐らく本宅のサーバーとは隔離されている。よって本宅にあったような監視カメラの制御には全く関与していないだろう。
「長瀬は文相と教頭と繋がっているのは知ってるが,そのほかに繋がっている奴いないのか?」
藤井の質問に,聖志は考え込んだ。
彼の言うように,長瀬は文相である小倉,教頭と繋がっていたのは間違いない。教頭から出ている枝には,創立以来移動していない5人が吊されている。
しかし,長瀬と教頭が繋がっているのだとすると,何故長瀬は殺害されたのか。この辺りが混乱しているのだ。何か霧のような靄が掛かって見えにくくなっている。
「…まだはっきりとは分からないな」
聖志はそう答えた。
と,そのとき。
ぴりりりりり…
聖志の携帯が鳴った。
「はい」
「内田です。西原さんに依頼されたサテラシステム社長の件,分かりました」
「そうか,どうだった?」
「昨日はずっと家にいたようです。それは家族,会社双方共に確認済みです」
「なるほど」
「それと,午前2時から午前3時までの行動ですが」
「ああ」
「目撃者はいないのですが,電話のメッセージが状況証拠になります」
「つまり,その時間帯には家にいた,ということか」
「そういうことです」
聖志が夕べコンピュータ上でぶつかった可能性が出てきた。
「…その電話のテープはあるのか?」
「はい,参考までに録音させて貰いました」
───さすが,手回しがいい。
「じゃあ今度取りに行くから」
「分かりました」
内田はそう言うと電話を切った。
「誰だ?」
藤井は今の電話の相手を尋ねる。
「ああ」
聖志は昨晩のコンピュータ事件のことを掻い摘んで藤井に話す。
「…そんなことがあったのか」
「そう。で,その相手が誰だか調べている状態」
「なるほど。それで,今の電話は?」
「そのぶつかった相手候補のうちの一人の情報が入った。候補ってのは…,聞いて驚くなかれ,葉麻佐紀の父親,葉麻隆文だ」
「なんだって? どうして彼が候補なんだ?」
聖志は,研究所の設計主任者が彼であることを言った。
「しかし,それだけじゃ犯人とは言えないじゃないのか?」
さすが,心得ている。
「ああ。しかし彼が教頭との共謀を図ったら?」
「確かにそういう構図はなきにしもあらずだな。だが,何故共謀を……まさか,葉麻佐紀を…?」
藤井は言っているうちに思いついたようだ。聖志は頷く。
「教頭が娘を人質として,葉麻隆文に話を持ちかける,あるいは脅迫する」
「…そういうことか。それで,彼が候補に挙がったのか」
「ああ」
候補に入っているのは今の葉麻隆文,大嶋淳次,そして教頭と校長である。文部大臣である小倉は直接は動かないだろう。彼は教頭を高い地位に維持することで教頭の作業をしやすくしているのだ。その見返りに教頭から報酬を受け取るという関係が見えてくる。教頭は葉麻佐紀を事実上の人質にしてあの研究所の設計者,葉麻隆文にこの仕事を依頼したものと思われる。依頼とは言え,ほとんど強制に近いのだが。
もしくは,同じように大嶋水穂を人質に取られた大嶋淳次がこの仕事を強制されているということも考えられる。しかし,大嶋淳次がこれを遂行するには少し困難なところがある。まず自宅にコンピュータがないという点。小さなことかも知れないが,コンピュータの類がなければこの作業は決して出来ないのだ。確かに学校に行けばコンピュータはあるが,彼自身は歩くこともままならないのだ。逆に教頭が警官が見張っている彼の家にコンピュータを届けることなどかなり危険を伴う作業である。
この点を無視できるのは,今は亡き長瀬和義がこの部屋などから直接研究所へハッキングしたところで聖志とぶつかった,という場合。しかし昨日ぶつかった奴は,何度も言うが正規の手順でアクセスしていた。あのパスワードを知らない者の犯行ではないのだ。しかし,当然ながら長瀬が犯行を行うことは不可能である。
つまり,この時点であのパスワードを知っている者の犯行と限定されてしまう。よって,人質を利用して強制行動を確立でき,尚かつアクセスの正規手順を知っている葉麻隆文ただ一人ということになってしまうのだ。
しかし,実行犯はまだ分からない。教頭なのか校長なのか,葉麻隆文なのか。葉麻が手順を教え,実行するのは教頭でも校長でもおかしくはない。何かしっかりした証拠が欲しいところである。
「…誰にしても,その実行犯はここからアクセスしたんじゃないか?」
「え?」
藤井の何気ない言葉に,聖志は考えを巡らせた。
「多分この吸い殻が証拠となると思うけど」
手際よくビニール袋に入れられた吸い殻を見た。
「───そうか,なるほど」
そのとき,聖志は全てを悟った。