───AM6:23。
聖志は少し早めに目が覚めた。どうやら熟睡できなかったようだ。
───もう一度あの写真を見に行くか。
長瀬の殺害現場が写っている写真である。出来れば現場に行って実際にみてみたい気分だが,さすがにそれはすぐに実現できそうにない。取りあえず高崎署署長にいろいろと情報提供をして貰って我慢するしかないようだ。恐らく一筋縄では行かないだろう。
いつもなら隣のベッドでは美樹がまだ寝息をたてているはずだが,本当に昨晩は寝なかったようだ。無理をしていないといいが。
聖志は軽い朝食を作るべく,ベッドから起き上がる。早めに高崎署へ行っておかないと,長引くと藤井との約束の時間に間に合わない。
キッチンは当然だが,誰もいない。彼は洗顔と歯磨きを済ましてから,手際よく朝食を作る。ハムエッグにインスタントのコーンポタージュ,トーストを2枚。たまに朝食を摂るときに作るメニューだ。決して量は多くないが,彼にとってはこれぐらいでちょうどいい。
トーストをオーブンに入れ,焼けるまでの間にリビングの電話で高崎署へ連絡を入れる。
「こちら刑事課」
「おはよう,西原だけど」
「君か。こんな早くにどうした?」
声の主は恐らく刑事課課長,池和刑事だろう。少し口調を改める。
「今日,そちらへ行きますので」
「…何か知りたいことでもあるのか?」
「ええ,具体的には行ってから言いますので」
「分かった。ただ…」
「え?」
「今日は署長はいない」
「どうしてです?」
「県警本部の方へ行くと言ってた」
───図ったような行動だな。
「…分かった。でも用があるのは署長にではないから,心配はありません」
「分かった。ではあとで」
「はい」
彼は答えて電話を切った。
───何をしに行ったんだ?
警視庁へ行った,ならわかるのだが,何故県警へ行く必要があるのか分からない。なぜなら彼女は警視庁直属で,こちらには臨時で派遣されているだけであるからだ。前の署長は海外研修に行っているので彼女は高崎署の繋ぎ役なのだ。
と,キッチンでトーストが焼ける音がするとともに,香ばしい匂いがリビングまで届いてきた。それが分かったのか,美樹の部屋のドアが開いた。
「お兄ちゃん,おはよう」
「ああ。朝食が出来てるぞ」
「うん,ありがとう」
彼らはキッチンへ向かった。
「今日は早いのか?」
身支度を済ませている彼女に言った。
「うん,午前中だけ。そういうお兄ちゃんはどこかに行くの?」
「ああ。もしかすると帰らないかも知れないけど」
「帰らないの?」
「今日中には,って意味だけど」
「分かった。…でも,いいの?」
「へ?」
「中央学院って,自宅待機なんでしょ?」
根が真面目なだけに,彼女はこういうことに拘ってしまう。
「誰から聞いたんだ?」
「春奈ちゃんから」
───佐倉春奈か。
「…その子は確か同じ学校だろ。何でこっちのことを知ってるんだ?」
「春奈ちゃんには中央学院に通っている友人がいるの。麻由美って言ってたような気がするけど」
「…そうだったのか。なるほど」
聖志が納得したのは,ようやく小さな疑問が解けたからである。佐倉春奈と高倉は繋がっていたのだ。ま,分かったところで大したことはないのだが。
「それより,昨日は本当に寝なかったみたいだな」
「うん,一応計画立てたんだけど,なかなかうまく行かなくて」
「…そりゃ,俺の計画の真似をしたところで,うまく行くはずがないんじゃないか?」
「あ,知ってたんだ」
「そりゃ,まあな。ああいうのは,自分のやり方でしかうまくいかないもんさ」
聖志は最後の一口を口に放り込むと寝室へ行き,身支度をしながら今日の予定を考える。
まずは高崎署へ行って長瀬の遺体現場の検証,必要であれば警視庁の方へ行くのもいい。実際に現場へ行った者の意見を聞いておきたい。許されるならば実際に現地へ飛んで,中国の警察から直接現場の状態を聞きたいところである。
そして次に…,
───そうだ。大嶋宅へ連絡を入れないと。
昨日割り込んできたのは何処の誰か,正体は分からないまでも,大嶋淳次本人かどうかはっきりするはずである。
それから藤井との約束がある。午後9時に長瀬宅で待ち合わせだ。もうそろそろ警察の警戒もないだろう。
取りあえずいつもの装備に着替えると,聖志は大嶋宅へ連絡を入れた。
「もしもし,大嶋ですが」
「おはよう,西原です」
「え? 西原君?」
「そう。今日,お宅へ伺います」
「え,そんな話聞いてないけど…」
「だから,今言ったじゃないですか」
「…何かあったの?」
彼女の意図するところは分かる。
「あった。だから行く」
「…分かったわ。じゃあ待ってるわね」
それを聞くと,彼は受話器を置いた。本来ならば抜き打ちで行くのが一番効果的なのだろうが,彼女を疑うのはどうも気が進まなかった。
───AM7:23。
「美樹,もう出掛けるか?」
「うん」
「じゃあ先に出ろ,俺も出るから」
聖志はそう言いながらテーブルの上に置きっぱなしだった資料をまとめて鞄に放り込む。
2人は家を出て鍵を掛け,マンションの下まで下りる。
「駅まで行くか?」
聖志は車のキーを見せて言った。
「ううん,電車まで時間あるから」
「そうか,気を付けてな」
「うん」
聖志は頷くと,駐車場へ向かった。
───確か,この辺りだったな…。
聖志は電車を使わずにここに来るのは初めてなので,周りの景色を確かめながら運転する。
彼女の家は星野のマンションの向かい側である。つまり,あの辺りまで行ってしまうとまずい。取りあえず宇部駅周辺の駐車場に車を止め,そこから徒歩で行くのが一番いいようだった。
朝から照りつける太陽の中,厳重警戒中である大嶋宅のアパート前。警戒中とは言っても表に警備員がいるわけではないが,アパートの周りを定期的に行き来している。
大嶋宅のチャイムを鳴らす。
家の中から大嶋の声が聞こえ,玄関が開く。
「おはよう」
「おはようございます,大嶋先生」
「…何か不自然ね」
こっちの方が教師としては自然なはずであるが,この間からいつも事務的な口調で統一してきたのでそう感じたのか。
聖志は彼女に招かれ,いつか入ったリビングへ通された。いきなり大嶋淳次との対面かと思いきや,彼は自室にて休養中らしい。
「どうぞ」
「いや,お構いなく」
いつぞやと同じく紅茶が出された。
「それで,どうしたの?」
「…この家にパソコンの類はある?」
「パソコン? そんなのないわよ,私も父も使わないし」
「…そうか」
───つまり,大嶋家の誰かの仕業ではない。
「パソコンがどうかしたの?」
「ああ。昨日,ちょっとしたことがあって」
「ちょっとしたことって,何?」
彼女に聞かれ,聖志はあのことを言っていいか考えたが,
「…実は,昨日聞いた研究所のコンピュータにアクセスしたんだけど」
「ああ,昨日教えたわね。…それで?」
「そのときに,他の誰かが俺と同じように侵入してきた」
「…研究所のコンピュータに?」
「ああ」
「…ということは,誰かが本物のIDを持ってる…?」
聖志は頷いた。
「それが本物かどうか分からないが,恐らく正規の手順でそのコンピュータにアクセスしたんだろう。あのセキュリティはかなり厄介だから,そう簡単に突破できるとは思えない」
仮に相手がかなりのハッカーなら話は違ってくるが。
「そうでしょうな」
と,聞き慣れない声に聖志は思わず声の方を見る。
「お父さん,平気なの?」
彼女は慌てて彼に寄る。
───大嶋淳次か。
彼は杖を付いて隣の部屋から出てきた。ダンディな顔立ちに老眼鏡をかけている。髪はほとんど真っ白だが,髪の毛自体は多い方である。
彼女が話していた通り,かなり弱っている節が伺える。肺ガンということではあるが,人工呼吸器を付けていないところを見ると,まだそこまで深刻なものではないのかも知れない。
「水穂から話は聞いて,大体は知っておるが…」
「お初にお目に掛かります。西原です」
聖志は立ち上がって頭を下げた。
「君とは…話をしなければならないと,思っていたんだが…」
「お父さん,部屋に行きましょう」
水穂は淳次を自室へ押し戻す。
取りあえず彼女の提案で淳次の自室にて本人と話すことになった。
淳次の自室は和室で,窓際に彼の研究机と思われる木製のデスクが置かれている。左側には資料か何かの冊子がびっしり詰まった本棚が据えられ,研究熱心さを物語っている。窓には網戸がはめられ,時々吹く風に応えるガラスの風鈴の音が涼しさを醸し出している。
彼は向かって右側のベッドにここ何日かいるようだ。
彼女は父親をベッドに寝かせ,薄い布団を掛ける。
「…西原君,今日は調子がいいみたい。でも,あまり無理に喋らせないでね」
聖志に彼女はそう言った。彼は頷いてそれを承諾すると,早速質問に移った。
まず,今日午前2時頃から3時にかけて,研究所のコンピュータにアクセスしたかどうか。水穂の方にも聞いたが,一応念のためだ。
彼は,辿々しい言葉で話し始めた。
その内容は,彼が直接ここから研究所へアクセスすることは不可能であるということである。理由はコンピュータの類のものがこの家に存在しないからである。いくら正規のIDを知っていたとしても通信手段がなければ意味がない。
「…他にこのIDを知る者は?」
その返答は,やはり聖志が予想した通りのものであった。機密保持のために他の誰にも教えているはずはない。
「…ただ,水穂には…」
「ええ,私は知ってるわ」
父に話を振られて答える彼女。
大嶋淳次自身が拉致される可能性がかなり低いとなれば,やはり水穂自身が拉致されたときに聞き出された可能性の方が高いのだ。
「…他人に漏らしたことはあるか?」
「ないわ」
彼女が一瞬目を逸らしたのを聖志は見逃さなかった。
「…そうか」
取りあえず彼女への追究は保留しておく。
「じゃ,研究所のシステムを開発した人,もしくは団体は?」
「…サテラシステム…という会社だ」
「サテラシステム…?」
聖志は手帳にメモりながら再度聞き返す。
「そう…。確か,連絡先が…」
彼が本棚を指さすと,水穂がそこへ向かう。しばらく探したあと,戻ってくる。
「これ?」
彼女が父にそのメモを見せると,彼は頷いた。
「彼等は…研究所にはコンピュータシステムを,と推奨した」
「…ほう。その資料はありますか?」
「ああ…そのデスクに…」
聖志が彼の指さす一番上の引き出しを開けると,茶色の封筒に入れられた数枚のシートが出てきた。
「そうすれば万全だ,と言っていた」
それには完全なコンピュータデータ管理システムが組まれていた。インターフェースからセキュリティシステムまで。確かにシステムとしては万全だ。しかし,
───はっきり言ってデータベースだけなら,こんなネットワークはいらないんじゃないのか?
よく見ると,あらゆる所に端末をつなぐためのコネクタらしきものがある。これはこれで色々展示物などに使うのかも知れないが…。
なにげにその資料の裏を見ると,“設計責任者:葉麻隆文”とあった。
───葉麻…?
何処にでもある名字ではない。
「…この設計の責任者は誰でした?」
「それだ」
彼は聖志が手にしている資料を指さした。
「何と読むのですか?」
「…ヨウマ,だった」
「葉麻?」
今度は水穂が反応した。彼女も葉麻のことは知っている。
「…じゃあ,彼女のお父さんが…」
「即断はまずい。取りあえず調べないと」
聖志は彼女に言いながらメモ帳にメモる。
「…もう聞きたいことはないのか,若いの」
「今のところはもうありません。ありがとうございました」
淳次は資料を貸してくれると言ったので礼を言い,水穂と共に再びリビングへ戻ると,彼はほっと一息付いた。
「今日は具合がいいみたいでよかったわ」
「タイミングが良かったな」
「ええ」
「…ところで,質問なんだけど」
「…」
彼女はどうやら質問の内容を察したらしく,
「IDのことでしょ?」
「ああ。…本当に誰にも言ってないのか?」
聖志はさっき飲みかけだった紅茶を飲む。
「…分かってるんじゃないの?」
「ああ。だが,はっきりした形で言って貰わないと確信が持てない」
「…そう,分かったわ」
彼女は一息付いて,話し始めた。
―――聖志に助けられた日,正確には5月30日,最終の職員会議が終わったあとに帰り支度をしていると,教頭から校長室に呼び出された。彼女は取りあえず支度を終えて校長室に行くが,誰もいない。しばらく待ってみるが誰も来ない。仕方なく一旦職員室に戻ろうとして扉をくぐった途端,後ろから何者かに殴られた。
気が付くと目隠しをされ,椅子に縛り付けられている。口をタオルのようなもので塞がれ,呼吸をするのも困難な状況だった。
「お目覚めかな,大嶋先生」
誰かに声をかけられた。しかし,声を変換する機械を使っているのか,誰の声かは分からない。機械のような声になっていたのだ。
「唐突で失礼しました。実は,あなたに質問があります」
彼女は口を塞がれているため,反論もできない。
「IDを教えていただきたい」
彼女はこの一言で全てを悟った。今彼女を拘束した者達は,研究所の存在を知っていて,しかも彼女がそこの関係者であることを知っていたのだ。ということは,恐らく父がそこの所長であることも知っているのだろう。
「…あなたには病弱なお父さんがいますね」
声色は変わっていないものの,その声に殺意が見えた。
父の命がかかってきている以上,黙って父を殺されるわけには行かない。そう判断した彼女は仕方なくIDを口にした。その後気絶させられ,気が付くと聖志が校長室に入ってきた所だったのだ―――
「…なるほどな」
「そのときは思い出せなかったんだけど…後々よく思い出したの」
「そのときって?」
「あなたに助けて貰ったときよ」
「…そうか……。一つ質問だが,その質問にあったとき,相手は一人だったのか?」
「ええ……いえ,最低2人はいたと思う」
「どうして?」
「質問する人が一人,もう一人は私がIDを言うときに口のタオルをずらしたの」
「そうか,OK」
聖志はそれをメモると,立ち上がった。
「もういいの?」
「ああ,調査することが増えたんで」
「…そうだ,さっき葉麻って」
彼女は思い出したようだ。
「それはどうかわからない」
「…あなたはどう思ってるの?」
聖志はそれには答えず,リビングを出る。
「…そう」
彼女はそれ以上聞こうとしなかった。
聖志は次に高崎署へ行った。直接学校へ行くよりはこちらの方が近いのだ。
まずは2人の死体のことより先程の葉麻の件で調査することにした。それほど時間はかからないだろう。
情報部へ行き,
「これは,西原さん。情報部へ何か?」
「ちょっと用事があって」
彼はそう言いながら自分のパソコンをちゃっかりネットワークに繋ぐ。
「少しの間,使わせて貰うよ」
決して正しいやり方ではないが,これが一番手っ取り早い。
ネットワークから学校情報に入り,中央学院の個人データを検索する。
───確か,F組だったな。
1年生F組の個人データを眺めると,一番最後にあった。
葉麻の家族関係を見る。プライベートに立ち入るようだが,致し方ない。
彼女の家は核家族で,父,母,弟,本人の4人家族だ。問題の父の名前は…葉麻隆文,43歳。現在地方の会社へ単身赴任している。社名は日本コンピュータシステム株式会社。
───ドンピシャか…。
予想できたこととは言え,実際に目の当たりにすると複雑な気分だ。しかし,勤め先はまだはっきりしていないが,これを見る限りはどうも違うようだ。
母は旧姓松元昌子,39歳。現在は葉麻家を守る主婦生活をしている。
弟は葉麻昌隆,14歳。現在市内の中学へ通っている。姉の佐紀とは2つ違いである。
聖志は取りあえず葉麻隆文の部分の資料をコピーした。
その次に彼の勤め先である会社を調査することにする。
日本コンピュータシステム株式会社,本社は愛知県名古屋市。創立は1996年10月1日。従業員数201名,資本金1億円,売上高102億円,現在社長は葉麻隆文。
───へ? 社長?
何と,彼はこの若さで社長である。ホームページにしっかりと彼の名前が挙がっている。
そういえば,高倉から何とはなしに聞いたことがあるような気がする。が,隣の葉麻に言葉を遮られたことがあった。こういうことだったのだ。
これを見る限りではかなり新しい会社である。ほんの数年でここまで発展した会社だ,よほど社長の手腕があったものと思われる。
所在地は名古屋市。名古屋だとここからそう遠くない。特に単身赴任する必要があるのかどうか分からないが,まだ忙しい時期なのかも知れない。
───しかし…。
確かに会社名は違うが,葉麻隆文は実在し,しかもコンピュータ企業に勤めている。これが偶然なのだろうか。しかし,会社の事業内容はコンピュータシステムの設計,構築と,極めて簡潔にしか書いていない。コンピュータシステムを構築する会社なら日本に山ほどある。本当にこの人物と,あのシステムの設計責任者が同一人物とは限らないのだ。
───本人に聞くのが一番だな。
聖志はそうまとめると,調査を打ち切った。
「邪魔したな」
「はい」
自分のパソコンを持って刑事課へ向かう。長瀬と前北の死体について調べるためだ。
「遅かったじゃないか」
見ると,課長が不満そうに言った。
「少し事情が変わって」
課長のデスクにあるデジタル時計を見るとAM11:34。今朝電話してから,大体4時間経過しているのだ。
「それで,どうしたんだ?」
「…例の,長瀬と前北の死体の件です」
「あれか」
課長はデスクの中から2枚の現場写真を取り出し,脇に置いてあったホワイトボードにマグネットで張り付ける。
「内田から話は聞いてる。共通点となりうるものが確かに存在するな」
「…包丁に,ガラスの破片。確かに死因は絞殺かも知れないが,微妙に絡んでいるはずだ」
聖志は腕を組んだ。
「本庁からの報告だと,この破片は関係ないらしいが…それでは納得行かないんだろう?」
聖志は頷いた。
「じゃ,どういう考えを持っているんだ?」
池和は聖志に尋ねた。
「…あくまで私見ですけど」
「ああ」
「確かに直接の死因は絞殺かも知れないが,それに至る過程で包丁あるいはガラス瓶を使用した。例えば,後ろから気絶させるためとか,脅しとか」
「しかし長瀬はともかく,前北は知り合いの犯行なんだろう? だったら何故そんなことをする?」
「知り合いの犯行? もう犯人は割れている?」
聖志は驚いた。
「…いや,俺はそう思っているが…」
池和は無精ひげを触りながら言った。
「なぜ?」
「実は,長瀬が出国したときの出国手続きは偽造だったんだ」
これは警視庁の力であろう。調査権を持っているのだ。
「…」
「つまり,長瀬が出国した時刻が殺人当日の午後3時とは限らない。少し時間に幅がでてきたわけだ」
「…そうなると…」
「前北の死亡推定時刻は当日の午後4時から午後9時までの5時間だが,この間に長瀬の犯行が可能になった」
「…ほほう。彼の会社の方はどうなってます?」
「…それはまだ分からない。今のところ特に異常はない」
「それなら,長瀬が犯行を犯せるかどうかは分からない。中国側の入国手続きの確認は?」
「情報はない」
「では,その推測は無理があります。3つの事項の内2つが不明なんだし」
「…そうだな…そうかもしれない」
池和刑事は自分の椅子に座った。
「じゃ,最初の質問に戻るが,どうして脅しなどを講じたんだ?」
「つまり,そうする必要があった」
「…ということは,顔見知りではない,赤の他人の犯行か」
顔見知りの場合は犯行を犯しやすい。相手が知人であると油断するからである。逆に赤の他人ならば当然抵抗もするだろうし,悲鳴でも上げようものなら犯人側としては,仮に実行したとしても,後々の証言でそういうことが出てくると厄介なのだ。そこで脅す,もしくは気絶させるという行動が必要になる。
「……赤の他人かどうかは分からないな。その場にいるはずのない人物,としておきます」
「…実は目星がついてるんじゃないのか?」
池和の一言に,彼はニヤリと笑う。
「前北を殺った者は大体分かってきた」
「…じゃ,次。長瀬の殺害犯は?」
「その件はまだ何とも言えないな…。…その現場を見た者がいればいいんだけど…」
目撃者がいれば,そのときの状況が包み隠さずに分かるはずだ。
しかし,そう都合よくはいかないだろう。何しろ海外,中国での出来事である。目撃者がいても,こちらが独自に探し出すのはかなり困難だ。
───ここは一つ…。
「池和刑事,署長に伝えてください」
「ん?」
「いい情報があるって」
「…何をする気だ?」
「それは,署長から直接聞いた方がいいですね」
「情報って,前北の殺害犯のことか?」
「…さあ。じゃ,俺はすることがあるので」
少し含みを残しつつ,聖志は刑事課を後にした。