―――PM4:12。
聖志は急ぎ足で自宅に戻る。
「あ,お帰りなさい」
リビングに入ると,美樹がいた。どうやら試験勉強中のようだ。
「早いな,もう半日授業なのか?」
「うん,もう3日前だし」
「そうか」
そう言いながら鞄をパソコンの横に置き,ネクタイを緩める。
「少し出るから」
「そうなの? 夕飯はどうする?」
「今日はいい。少し遅くなるかも知れないから,先に寝ててくれ。いつものように鍵はしっかり閉めて,何かあったらあれを使ってくれ」
あれとは,彼女が常備している緊急時のベルである。
「分かった」
彼女の返事を確認してから寝室で着替え,
「それじゃ」
「うん」
挨拶を済ませると聖志はマンションの前の駐車場へ向かい緊急時用に借りた車を発進させる。
星野警部が治療を受けている病院は,高崎市立病院。さっきの現場から少し離れているが,それに見合った治療が受けられる,救急指定病院である。
車を走らせ15分後,ようやく病院の駐車場へたどり着いた。不意にバックミラーを見ると,藤井のバイクがちょうど駐車場へ入るところだった。タイミングがいい。
藤井と聖志の2人は巨大な病院の廊下を歩き,「星野忠志」の文字を見つけた。
一応ノックする。どうやら相部屋ではないようだ。
「はい」
ガチャ…
星野は特に足を吊られているわけではなく,縛られているわけでもなく,点滴を腕に刺しているわけでもなく普通にベッドに横たわっている。
「ああ,藤井さんに西原さん」
「生きてましたか,星野さん」
藤井は冗談混じりに言った。
よく見ると,頭に包帯を巻いている。
「このたびは面目ない。みすみす犯人にはめられてしまった。それで,大嶋宅はどうなっているんですか?」
「特に問題はない。犯人自身は取り逃がしたが,逮捕したも同然だ」
聖志は窓側の椅子に座って言った。
「どういう意味ですか?」
「警部がやられたあとに,今日付けで配備されたうちのメンバーが犯人と格闘して血液を採取してるんです」
「…なるほど,DNA鑑定か」
さすが,頭を怪我してもちゃんと脳は回転しているらしい。
「ご名答です」
「大嶋宅は高崎署の警官4名が家の周辺を,2名が家の中にいる。家の者は少々落ち着かないと思うが,警備の面では問題ない」
「そうですか…助かりました」
「こう言ったときはお互い様ですよ,警部。では私はこれで」
気を遣ったのか,そう言った。
「ああ,気を付けて」
「では」
藤井は口で星野警部に,聖志に目で挨拶した。
―――数秒の沈黙。
「無事で何より」
「…まあ,そうだな」
星野は親父モードに突入した。
「昼間,貴未と舞が見舞いに来てくれた」
「そりゃそうだろ」
「お前は来てくれなかったな」
星野は皮肉っぽく言った。
「先に現場に行っていたからな。それどころじゃなかった」
彼はそう言ってニヤ付いた。
「…舞は殆ど泣きかけていたというのに,お前という奴は」
そういえば昼休み以来,舞には会ってない。一体どんな顔をしていたことやら。
「こんな仕事辞めてだとさ」
「それは母さんの言葉だな」
「そうだ」
彼はそう言って笑う。辞めるつもりは更々ないということである。
「全治までどれくらい?」
「3日弱らしい。たかが後頭部を殴打されたくらいで,笑い話にもならん」
自嘲的な笑みをこぼす。
「ま,少しの間,体を休めることも必要だろう。いい機会だ」
聖志はそう言って椅子から立ち上がった。
「そうだな。大人しくしてるよ」
「じゃ」
「ああ」
お互い短い言葉で締めくくると,聖志は病室を出た。
「随分短かったな」
少し離れたところにある待合い専用のソファから立ち上がり,藤井が言った。
「ただの雑談さ」
そう言って2人は病院を出る。
「そういえば,少し前に本部長から連絡があったけど」
「なんて?」
「昨日,警視庁の鍵川警視が高崎署の署長に就任したって」
「ほほう」
「それに,今回の事件の捜査本部を設置だと」
「…なんか大がかりになってきたな」
「全くだ」
藤井はバイクのキーを出す。
「じゃあ,明日」
「ああ」
すっかり暗くなった駐車場で,彼等は挨拶した。
と,聖志の車の中で呼び出し音が鳴っている。彼は慌ててドアを開け,
「こちら西原」
「わたしだ」
「本部長」
助手席に設置されている特別無線機のモニターを見た。
「ようやくこの間の連中が主犯を吐いたそうだ」
この間の連中とは,美樹を使ったデータ奪取未遂事件である。
「そうですか。それで?」
「ああ,その件については直接署へ来て欲しいとのことだ」
「高崎署へですか?」
「そうだ。理由はわからん」
「…分かりました。行ってみます」
「頼む。では」
ブツリ,と妙な音を立てて通信は切れた。
―――警視はどうでるかな?
微かな期待を胸に,聖志は高崎署へと車を向けた。
高崎署へ着く頃には,ダッシュボードのデジタル時計は8時を示していた。
聖志は専用駐車場へ車を停め,高崎署の玄関をくぐる。当然のように階段を上がり,刑事課の前を通り過ぎ,署長室へ向かう。
「あ,西原さん」
不意に声をかけられ,振り返る。
「よう,内田刑事」
「ついに吐きましたよ。ホシを」
「その件で署長に会いたい」
「それでしたら,そのドアです」
「OK」
一応ノックする。
「入れ」
確かに,鍵川警視の声だ。聖志はドアを開ける。
「失礼しますよ,警視閣下」
「西原クン!? どうしたの?」
「…白々しい驚き方は,前に増してリアリティを帯びてますね」
「あら失礼ね,お偉いさん」
そう言って2人は敬礼した。
「今日はお土産を貰いに来たんですが」
「そうそう,いいのがあるのよ」
双方ともソファに座った。
「…それで?」
「この前,西原君の妹さんを人質に取った事件の,主犯が分かったの」
「だから,それで?」
「この事件は単独じゃないって感じがするのよね。他の事件とも関連がある」
「…で,その主犯は誰?」
「例えば,以前の前北靖子殺害事件とも」
聞くからに話を逸らしている鍵川警視。
「…内田に聞いた方が早そうだな」
「あー,待って!」
立ち上がる聖志を大声で呼び止める彼女。
「それで,何が知りたいわけ?」
聖志は自分から餌を出した。
「やっぱりあなた,話が分かるじゃない」
ようやく話に乗り出す彼女。
「時と場合によるが」
「そんなこと言わないで,主犯教えてあげるから」
「で?」
「主犯はこれ」
彼女はそう言ってデスクの上にあった資料を目の前のテーブルに置く。
―――本名:若井田孝治。現職:高崎市立中央学院高等学校教諭。年齢:37歳。宇部人質事件における,主犯と思われる人物。
───やっぱりね。
聖志はため息混じりに言った。
「どうやって聞き出した?」
「別に,普通に」
彼女は特に表情を変えることもない。
「じゃあ,何で今まで答えが出なかったんだ?」
「それは分からないわ」
つまり,以前の署長はそんなに事情聴取に積極的ではなかったのだろう。しかしこの鍵川美奈子(本名)警視はそのあたりが微妙に違ってくる。
「…また拳銃突きつけたな?」
「うっ!?」
口に含んだ紅茶を吐き出すまいと慌てて口に手を当てる。どうやら図星らしい。以前星野警部から聴いたことがあったのだ,事情聴取に関しては日本一だろうという警視の話を。
しかし,これで解決に一歩近づいたことに変わりはない。これで,中央学院教諭が4人,犯人として逮捕されている。しかし,報道関係の取材は学校には来ていない。そのあたりは全てガードされているらしい。もちろん学校関係者には知らされているが,そのあたりは学校の権力者が隠蔽していると思われる。
これで,中央学院創立以来転勤等をしていないリストの教諭は4人消えたことになる。しかし,残る一人,生物担当の横石教諭の出方が気になる。ま,偶然中央学院に居座ることになっているのかもしれないが,まだターゲットからはずすことはできない。
「…でも,よくあの事件の目的を看破したわよね」
「え? データのこと?」
「そうそう。聞くところによると,妹さんを誘拐されたとか」
「…まあね」
「何で今まで一緒じゃなかったの?」
彼女は予想通りの質問をしてきた。先行して考えていた聖志は説明の長さに,
「あなたには関係ない」
短くそう言った。
すると,彼女は小さく笑った。
「ま,そうね」
意外にも彼女は引き下がった。しかし,次にカウンターが控えていた。
「で,私が聞きたいのは,今回君が追っている事件の全容」
「…」
「冗談。でも,結果的にそうなるかもしれない」
「そんな仮定上の話をされても困る。そう考えるのは勝手だけれども」
「じゃ,具体的に言うわ。…この事件は,裏に何があるの?」
「どこが具体的なんだ?」
「具体的じゃないの。この,宇部埠頭誘拐事件の裏に隠されていたデータ奪取という目的を遂行する目的よ」
「…んなことは,それこそ犯人のこいつに聞いたほうが早いんじゃないのか? 拳銃突きつけて」
聖志は彼の資料をパンと弾く。
「知らないかもしれないじゃない。彼はただこのデータが必要なために利用されただけなのかもしれない。その点,君なら何かしら掴んでいるでしょ」
彼女は垂れた前髪を掻き揚げる。
「何かって…」
確かに,聖志はある方向を睨んでいる最中である。最優先で盗もうとしたデータは恐らく大嶋淳次が持っている土地の詳細内容。第2は,その大嶋現在何処にいるか,という情報だろう。幸か不幸か,最優先の大嶋淳次が持っている土地の詳細情報はまだはっきりしていないので,いくらパソコンをひっくり返しても出てこないのだ。第2の情報は何処から手に入れたのか,次の日に大嶋宅で恐らく陽動と思われる事件が発生。星野警部は後頭部を打撲し,およそ全治1週間である。
データ収集遂行の目的は,やはり学校地下の土地のことである。それを一番上で操っているのは教頭,それに従事しているのは校長,その下にいたのが今回逮捕された若井田教諭,そのまた下にいたのが教会で現行犯逮捕された3人。聖志の考えでは,そういう相関図が浮かんでいる。今のところ,この相関図で正解なのは下の2階層,若井田教諭とその下の3人である。あとの関係は全くと言っていいほど,裏づけができないのだ。
「何も知らない」
「そんなことはないでしょ」
すかさず彼女が言う。
「…そうだな…。知っていることと言えば…」
「言えば?」
「…教会での殺人未遂があっただろう。あの犯人と今回逮捕された若井田は主従関係にあった。分かっていることと言えば,こんなところか」
「…ホントに? それだけなの?」
「うん」
彼女は一瞬疑いの眼差しを聖志に向けたが,彼の言葉を信じたのか,珍しく引き下がった。
聖志は時計を見ながら立ち上がる。
「では,これで」
「…なんか,うまく利用されたみたいだけど…また今度ね」
───利用したのさ。
聖志は署長室を出た。