―――PM4:25。
「このペースじゃ無理だよぉ」
春奈は数回目の弱音を漏らした。
「何言ってるの,まだ3日あるじゃない」
いつもポジティブな考え方の佳美は言った。
「3日で何とかなる量じゃないよ」
「大丈夫。この計画通りにすれば,テストの前の日には全部終わってるよ」
美樹がそう言ってメモ用紙を手渡した。
「…美樹,よくそんな効率のいいもの思いついたわね」
横から眺めていた由利が言った。
「ちょっとお兄ちゃんから失敬しちゃった」
それは,聖志のパソコンの前にメモ書き程度に置かれていた。それを,美樹が自分たちのカリキュラムに書き直したものである。オリジナルは,聖志の期末テスト攻略計画であった。
「…でもこれだと,寝る時間がほとんどないじゃない」
確かに,学校から帰ってきてからまず就寝時間が3時間あり,そのあとはずっと予定が入っている。
「お兄ちゃんにとってはいつものことみたい」
「いつものことって…1日3時間しか寝てないの?」
「…わたしもよく知らないけど,多分」
「凄いね,あたしもその計画やってみようっと」
佳美が感心してそう言った。彼女はやると言ったら必ずやる性分なのを全員が知っている。
「やめなよ,体壊すよ」
「そうよ,こういうのは慣れた人でないとできないよ」
「…んー。正直難しいかも」
そんなことを言っていると。
―――ピンポン
「…美樹,誰か来たんじゃない?」
春奈が言った。
「うん」
美樹はそう言ってリビングを出て玄関へと向かう。…と,彼女は聖志に言われたことを思い出した。
『俺が帰るまでは開けるなよ』
―――どうしよう。
「こんちはー,小包ですけど,どなたかいませんかー?」
それを聞くと,美樹は安心した。
「ちょっとお待ちください」
彼女はそう言って,印鑑を取りにリビングへ戻った。
―――と!
ガゴッ! ガシン!
一同は一斉に声を止めて玄関の方を見た。
「美樹,何か変な音がしたよ」
「ドアを叩いてるんじゃない?」
佳美が軽く言うと,
「違う。叩いてるんじゃなくて,…蹴破ろうとしてるんじゃない?」
由利が声を潜めてそう言った。
その瞬間,美樹は聖志の言葉の意味を悟った。聖志以外のものは誰も入れるなという意味だったのだ。
そして,次の瞬間に聖志の言葉を思い出した。
「みんな,こっちへ来て!」
声を潜めてそう言った。
ガゴン! バギッ!
玄関のドアもあまり持ちそうにない。
美樹はみんなを先導して,ベランダの窓を開けた。
「早く」
全員ベランダに出て,窓を閉める。もちろんカーテンを閉めてある。
そして,朝聖志に貰った発信器のボタンを押した。
―――お兄ちゃん…。
無意識に,彼女は聖志のことを考えた。
聖志は快速列車の中であった。
―――明日から,中槻の調査か。
そう考えると,やっぱり面倒だ。伊野坂だけに任せるという手もあるのだが,いくら何でもそれでは時間がかかりそうだ。どんな手を使って実体を隠しているか分からない。
と,いきなりポケットの中の通信機が震えた。
―――まさか!?
聖志の脳裏を最悪な状況が過ぎる。案の定,彼の予感はよく当たる。
彼はすぐさま携帯で藤井に連絡を取る。
「こちら藤井」
「西原だけど,今から俺の自宅へ行ってくれ」
「なんでだ?」
「行って見れば分かる。すぐに行ってくれ」
いつにない聖志の慌てように藤井は取りあえず承諾した。
そのあと藤井は高崎署に連絡し,バイクにまたがって聖志宅へと急いだ。
―――ロイヤル高崎4号棟。
辺りはしんと静まり返り,とても何かあったようには見受けられなかった。
取りあえず藤井は聖志宅へ急ごうと,4号棟へ入ると,いきなり管理人が部屋から出てきた。
「ああ,警察の方ですか?」
50ぐらいのおじさんが何やら焦って言った。
「え? あ,はい」
一応公的にはそういうことにしておく。
「随分早いですね,今連絡したんですけど。513号室が,何者かに侵入されたんです」
「分かりました,エレベーターは使えますね?」
「ええ」
「住民はどうしました?」
「今,全部屋に出ないように言いましたが…早いところ行った方がいいですね,特におばさんはそう言うのが大好きですから」
藤井は意味を理解して苦笑いを浮かべた。
そしてしばらくすると,車の音が聞こえた。
「藤井さん!」
「ああ,内田刑事」
どうやら高崎署の刑事が来たようだ。
「じゃあ管理人さん,鍵を」
「案内します,こっちです」
藤井と内田,高崎署の刑事が数名,聖志の部屋へと駆け込んだ。
まず目に付いたのは,玄関口のドアが傷んでいることである。蹴破られたドアから数名の捜査員が中に入る。
藤井は一応間取りは知っている。キッチンがあり,奥にリビングがある。その右奥の扉を開けると寝室がある。
聖志の話では,緊急時には寝室の奥のベランダに出るように言っていったらしい。それでは不十分なことは分かっているが,まずマンションに侵入された場合は回避不可能である。
「あ,それと,寝室の方に助かった方が…」
管理人がそう言った。
「助かった方?」
藤井はそう呟くと,寝室の方へ向かった。
寝室のベランダの方はガラスが割れ,生ぬるい風が寝室に吹き込んでくる。
ベッドの所には助かったと思しき2人の女子高生が座っていた。一人は生気のない表情をしている。よほど驚愕したのだろう。もう一人は少し余裕が出てきているのか,藤井の姿を認めて軽く頭を下げた。
「私は高崎署の内田です。話を…聞かせてもらえますか?」
内田は少し気遣わしげにそう挨拶した。
―――と。
「藤井! 来てるか!?」
玄関口の方で声がした。
「聖志か?」
藤井の問いを聞いた女子高生の一人が立ち上がった。
聖志が寝室へ飛び込んでくる。
「…美樹はやっぱり…?」
彼は彼女らに問いかけると,黙って頷いた。
「分かった。2人を保護してくれ」
聖志はそう言ってリビングへ向かった。
「周辺の聞き込みと,住民への勧告。情報収集も」
急遽駆けつけた棚丘警部補の指示が飛ぶ。
「分かりました」
「西原さん,彼女等が話があると…」
内田がそう言った。
「分かった」
聖志は取りあえず寝室へ向かい,扉を閉めた。
「悪かった,俺がいないばかりにこんなことになってしまって」
「…仕方ありません。それに,こういうときの処置もちゃんとしててくれたのは,こちらが感謝したいくらいです」
美樹の友人の一人,安藤由利が言った。
「…それで,もう一度確認しておきたいんだが…美樹と,もう一人は犯人に連れ去られたんだな」
「はい」
「…コレって,誘拐なんですか?」
今までふさぎ込んでいた,立川佳美。
「分からない。犯人は,何か言ったか?」
「…あたしは聞いてないけど…」
「確か……埠頭の第22倉庫って言った…」
「埠頭の倉庫か。分かった,感謝する。この後少しの間,警察の相手をしてくれ」
「…お兄さんて,警察の人なの?」
佳美が尋ねた。
「違う」
「そうなんですか。ちょっと慣れているような気がしたんで…」
「よく言われる」
聖志はそう言って,2人を連れてリビングへ向かった。
「先に外へ出てくれないか」
「あ,はい」
彼は2人を取りあえず玄関口へ向かわせると,リビングのパソコンの辺りを調査していた内田刑事に耳打ちする。
「取りあえず両親への報告と,事情聴取」
「わかりました」
内田は返事とともに玄関口へ向かった。聖志はそれを確認すると,捜査の指揮を執っている棚丘警部補に言った。
「埠頭の第22倉庫へ捜査員を派遣してくれ」
「何故そこへですか?」
「彼女等が言った」
「西原さんはどうするんですか?」
「一足先に行く。それともう一つ,このコンピュータのデータをバックアップした後,コンピュータにこのウイルスを投入」
彼はそう言ってコンピュータ台の引き出しからフロッピーを取り出した。
「まだ使えるんでしょ?」
「ああ,説明しよう」
聖志は考えを述べた。
敵の狙いがどうも曖昧である。単純に聖志をおびき寄せるためなら,ここにいた,美樹を含めた彼女等全員を連れて行かなければ意味がない。誰かを残しておくと,犯人の盾が少なくなる。しかし,全員を連れていかなかったところを見ると,聖志一人をどうこうしようと言うことではないだろう。
彼は,美樹達を連れ去った犯人は警察をおびき寄せる餌であって,本当の目的はコンピュータのデータを奪い,自分たちの情報証拠を粗方闇に葬るための行動を起こす,と予想した。
「ですが,その通りだとすると…犯人の数が気になります。ここで誘拐すると,ここがしばらくの間捜索されるのは承知しているはず。1人,2人ではどうこうしようがありません」
彼の言はもっともである。
「そうだな。奴等もそこまでバカではない。しかし,単純にデータをコピーするだけなら直接ここに来る必要はない。ネットワークなどを使って離れたところからでも可能だ」
「ですが,JSDO所属のコンピュータなら接続系統が多少細工されているのでしょう?」
「ああ。今,まさに彼等はその突破を試みていると思う」
JSDOの全てのコンピュータは通常のものとは違うインターフェースで接続されているが,かなりのハッカーならこのプロテクトを突破する事も可能である。
「ならば,ケーブルを切断すれば…」
「ダメだ。こちらが奴等の作戦を看破したことにに気付いてしまう。そうなると当然作戦は中止される。すると,不要となった人質の命がまずい」
「…なるほど。だから,コンピュータに直接奴等を返り討ちにさせるのですか」
「そう。でも,取りあえずここは警戒態勢で。そんなわけで,よろしく頼む。」
「はい」
聖志は寝室へ戻り,グロックのサイレンサーとレーザーサイトを取り出す。
「聖志,そろそろ行くか」
寝室の入口から藤井が言った。
「そうだな」
「そこで大人しくしていれば何もしない」
拳銃を手にした男はそのまま立ち去った。
そこは砂埃の舞う,薄暗い倉庫らしき建物の中である。
ある一本の鉄の柱に彼女等は後ろ手で縛られている。
「…ねぇ,何をするつもりかしら?」
美樹は意外に落ち着いていた。
「わ,分かるわけないじゃない」
もう1人は美樹の友人,佐倉春奈であった。美樹とは対照的に,かなり脅えている。
美樹は周りを見渡した。目の前には,かなり大きな窓と思われるものがある。しかし,高さ2メートルはあると思われる。天井には大きなライトがいくつも設置されている。但し,点灯はしていない。左側には,もう使われなくなった鉄のデスクや椅子の残骸の山がある。荒廃した工場のようである。
「美樹,ここから逃げよう?」
「…どうやるの?」
「取りあえず…このロープを切らないことには…」
彼女は縛られている手をもぞもぞ動かして何とかしようと試みるが,
「ダメだぁ…。どうする,美樹?」
「待つしかないよ」
「待つって…助けを? 甘いわよ,どうやってこの場所を知らせるのよ」
彼女は興奮気味に言った。
「だって,あの人達が言ってたわよ。由利たちに」
「へ? 嘘?」
彼女は確かに聞いていた。埠頭の第22倉庫だと言ったのを。
「なんで? そんなんじゃ意味ないじゃない」
「…それは…分からないけど」
彼女は一抹の不安を抱えた。
犯人の立て籠もっていると思われる第22倉庫周辺には,約20人ほどの見張りがうろうろしている。
「進行状況は?」
「はい,倉庫の北側と東側は包囲完了しました」
「西側は?」
星野警部は,アナログ腕時計を見ながら尋ねた。
「あと10分ほど必要です」
「分かった」
と,作戦テントに一台の車が近付いてきた。
「星野警部」
「あ,藤井捜査官」
彼は運転席から降り立った藤井に気付いた。
「星野,状況はどうなっている?」
聖志はグロックを確認して言った。
「現在犯人は倉庫周辺を警戒しています。犯人はおよそ20人弱。それぞれが拳銃などの武器を携帯している様子です」
「分かった。その場所へ案内してくれ」
「分かりました。長江,頼む」
防弾チョッキを着終わった長江刑事が案内役だ。
「待て,人質の場所は分かるのか」
藤井が待ったをかけた。
「ああ。発信器が場所を教えてくれる」
それを聞くと,藤井は彼に同行した。
第22倉庫は埋立地の一番南にあり,国道側から数えると第5ブロックに相当する。南側にはトラックが通れる道路があり,それを挟んで現在は漁船の船着き場がある。北側は細い通路を挟んですぐに第4ブロックの倉庫群が並んでいる。
ちなみに作戦本部は埋立地入口付近にある。
長江は倉庫の間の細い通路を,足音を潜めながら進んでいく。
「長江,作戦は決まってるのか?」
藤井は声を潜めた。
「多分星野警部が考えてると思いますけど…我々はまだ聞いてません」
長江はそう言った。
ここで考えられる作戦としては,聖志を中心とした囮を埠頭側に配置し,敵を引きつけている間に倉庫北側からの侵入というもの。人質を回収した後に北側からとの挟撃戦に持ち込めば結構早く決着は付きそうである。
「…あれです」
長江は手前の倉庫から様子を伺うように言った。
第22倉庫と,その付近の倉庫は,北,西,東方向に大きな窓がある。
北の窓からの侵入が一番望ましいと考えた。
「西原さん,人質の居場所はわかりますか?」
「ああ。本部のパソコンにこれをつなげばいい」
彼はそう言ってジャケットの内ポケットから受信機を取り出した。
「分かりました。じゃあ一旦戻りましょう」
そう言って彼は足早に本部へ向かった。
「では,作戦を説明します」
本部に戻ると,たった今決定した作戦を,星野警部が説明するところだった。
その作戦は,さっき聖志が思いついたのと同様の囮作戦だった。
倉庫の南側を除く全方位は全て捜査員が包囲している。つまり,南側に敵をおびき寄せ,北側から侵入,人質を救出した後に囮兼攻撃隊との挟撃戦を仕掛けるという段取りである。ただ,敵の数がはっきりしないのと,狙いが何であるかが分かっていないと言う不安はあるが。
「ご承知とは思いますが,西原捜査官には囮部隊の指揮を執っていただきます」
「分かった」
「侵入部隊は私が直接指揮を執ります。以上」
部隊とは言え,10人ほどの警官の集まりである。残念ながら,射殺許可は出ていない。全員逮捕しなければならないのだ。10人という少人数にしたのは,敵が応戦可能範囲だと判断できるからである。あまりに多すぎると逆効果になる。
数分後,5台のパトカーが用意された。倉庫の正面に出てバリケードの役目を果たすのだ。
「じゃあ警部,頼む」
「はい」
回転灯を付け,サイレンを鳴らして第22倉庫へ向かった。
「総員武装チェック,拳銃用意」
聖志はパトカー無線を使って全員に指令した。と,第22倉庫の正面が見えた。
「見えました!」
隣でパトカーを運転している長江がそう言った。
「よし,正面まで行ったら車を盾にして様子を見るぞ」
「はい!」
全車が急停車するとともに,倉庫の正面から攻撃が来る。
ババババババッ!!
「ちぃ!」
ガシャーン!!
聖志が座っていたシートの横の窓が飛び散る。
長江が飛び出るように外に出,そのあとを聖志が追う。
「西原さん,この人数では!」
凄まじい攻撃音の中,長江は声を張り上げて言った。
「この方が効果が上がるだろ,攻撃開始!」
そう言いながら車のバンパーの陰から敵の数を見る。
―――25か?
大方の見当を付けると,辛うじて生きていたパトカーの無線で報告した。
「警部,こっちは25人だ。恐らく殆どがこっちにいるだろう。チャンスだ」
「始まったぞ,窓を開けろ!」
聖志から報告を受けた星野は指令を出した。
予め北の窓の前に車高の高い車を配置し,その上から警官が突入する。
「開きました!」
「突入!」
遅れてきた警部補である棚丘が先頭で突入する。
「大丈夫か!?」
「あ,はい」
いきなり登場した棚丘に,2人は驚いたようだ。
驚いたのは棚丘も同じく,見張りという見張りが全くいないのだ。罠かとも思ったが,人質の保護が最優先だったので,他の刑事に任せることにした。
彼は2人を解放すると,報告を入れた。
「警部,保護完了しました!」
「よし,挟撃戦に持ち込め!」
窓から入り込んだ警官約30名は,あらゆるものを盾代わりにじわじわと追いつめていく。
戦況は思ったほど拡大せず,案外すぐに決着は付いた。
逮捕された犯人は全部で25名。この手の誘拐もどきにしては規模が大きい。これぐらいでないと聖志自身が出てこないと考えたのだろうか。
しかし,首謀者と思しき奴は取り逃がした。最初からそのつもりで逃げ道を確保していたのだろう。ま,犯人を取り調べれば首謀者は分かる。聖志に心当たりはあったのだが,それを証明するものがない。
「聖志,妹さんを連れて帰ってくれ」
作戦テントに戻ると藤井がそう言った。
「あの家にか?」
「いや,本部長が手配したそうだ。彼女は取りあえず事情聴取だそうだ」
彼は住所を書いたメモを手渡しながら,佐倉春奈を見やった。
春奈と話していた美樹が,こちらに気付いた様子だ。聖志は彼女らの方へ足を運んだ。
「2人とも大丈夫だったか?」
聖志は少し心配そうに言った。
「うん,大丈夫。ちょっと手が痛いけど」
美樹はそう言って手首をさする。赤い痕が痛々しさを感じさせる。美樹が妙に落ち着いていることが不思議でならなかったが,あえて無視した。
「佐倉さんは? 大丈夫か?」
「あ…はい。大丈夫です。ちょっとびっくりしましたけど」
彼女は美樹と違って,明らかに恐怖を味わった表情をしている。ちょっとと言ったが,実際の所,少しではないだろう。
「佐倉春奈さんは署の方に同行していただきます。いいですね?」
処理をしてテントから出てきた星野がそう言った。
「…あの,家の方には…」
「ちゃんと連絡しました。署の方にお母さんもいらっしゃいます」
星野は,彼女の不安を消すための微笑を浮かべる。
「わかりました」
「では,どうぞ」
星野に先導された彼女は,一度振り返り,
「じゃあ,明日ね」
「うん」
美樹にそう言って,聖志にも軽く頭を下げた。
「場所が変わったの?」
「ああ。あの家はもう処分された」
新住所のマンションの前である。
実はこのマンションは聖志の通う,中央学院のすぐ近くである。JSDOも何を考えているのか,だんだん危険な場所に移って行っているような気がしてならない。
聖志は近くの有料駐車場に車を止めると,運転シートからその身を下ろし,道を挟んで向こう側にある4階建てのマンションを見上げた。
「ちょっと駅から遠くなっちゃった」
「そういえばそうだな…」
相槌を打ってポケットから住所のメモを取りだした。夜闇のせいで字が見づらい。
「美樹,3階だ。行こうか」
「あ,でも,荷物とかはどうしたの?」
「大丈夫だろ。届いてるよ」
聖志はさも当然のように言うが,全てJSDOの仕事である。
玄関をくぐると,残念なことにこのマンションにはエレベーターが存在しないらしい。大家がマスターキーを持ってその部屋まで案内してくれた。
「ここじゃ。わしはいつも下におるから,何かあったら言いいなさい」
「分かった,ありがとう」
一応礼を言ってドアを開ける。
間取りは殆ど変わらず,手前からキッチン,風呂場,奥にリビングとなっている。
「良かった,これならすぐに慣れそう」
「そうか」
リビングにいつものコンピュータを確認すると,ソファに腰を下ろした。
「どうしたの,お兄ちゃん」
聖志の目の前にちょこんと正座する美樹。
「…怪我はないか?」
「…あ,うん。手首だけだよ」
両腕を出した彼女が示すそれには,赤い筋となって事件がおこった証拠となっていた。
「…お兄ちゃん…,ありがとう。助けてくれて」
不意に彼女は言った。聖志は返事の代わりに美樹の頭を撫でた。
「美樹,こんなことを言うことになるとは思わなかったんだが…」
「え?」
彼女は頭を上げた。
「離れて暮らした方がいい」
聖志はそう判断した。
「…どうしても?」
彼女もさほど驚いた様子はない。予想していたのだろう。
「…できればそうした方がいい。今回は俺をおびき寄せるためにお前を使っただけだが…別の行動に移ることも十分に考えられる」
「別の行動…?」
聖志は頷いた。
「それって…わたしを…?」
「…その可能性もある」
今回たまたまコンピュータのデータが目的だったので人質の命は助かったが,今度は聖志をおびき寄せるための人質となる場合もあるのだ。
彼女は顔を背け,
「…お兄ちゃんは…どう思ってるのか分からないけど…。わたしは離れたくない。危険なのは分かってるけど…」
か細い声でそう言った。
「…美樹……」
ようやく血の繋がっているもの同士の生活が出来始めたのに,突然離ればなれになるのは彼女には辛いことだった。まだ神崎家にいるときにも,聖志のことを夢枕に見たという。わざわざ新宇部学園を受験したのも,半分はこのためだったと言った。
「…分かった。ここにいてくれ」
彼は決断した。
「ホントに?」
「ああ」
「…ありがとう,お兄ちゃん!」
―――いざとなれば,自分が盾になるさ。