「いい日和だな」

真っ青に透き通った空を見ながら彼が言った。

「そうね」

遠出するデートなんて何ヶ月ぶりだろう。彼と二人,隣に座り路線バスで山へ出かけた。都会から離れたせいもあるか,なんて呟く。山の緑とその上に広がるスカイブルーのコントラストが綺麗な空気に映えてより美しく見える。

そろそろ大学を卒業する私の前祝いだ,なんて言いながら彼は照れたように,でも嬉しそうに誘ってくれた。彼は既に働いているので時間は余りないみたいだが…。

「よかったの?」

彼が私の目を見る。

「出勤だったんでしょ?」

「今日は日曜だぞ?誰が好んで会社へ行くんだよ」

そう言って彼は私の肩に手を回す。彼の温かい感情が流れ込んでくるように感じる。

ガタン,ガタン

路線バスの揺れが次第に激しくなる。別に危ない訳じゃないけど思わず彼の手を掴んでしまう。

「何だ,恐がりだな」

でも私はその手を離さなかった。彼もそれに気付き,その後はずっとそのままだった。

―――あの頃と同じ空。

安心感の中うつらうつらしていると,バスが停車する。

バスを降りると,古めかしいボンネットバスはけたたましい音と共に去った。

無闇に匂いをまき散らしていたバスが去ると,静寂が訪れる。

まるで別世界だ。

「いい所だろ?」

「うん」

隣の彼の自慢げな言葉だが,私は素直に頷くしか術がなかった。

―――自然は,あの頃と何ら変わらない。

「あ」

「え?」

「しまった…大事なもの忘れてた」

「何忘れたのよ?」

「ちょっと待ってて,買ってくる」

「あ…」

そう言い放つと,彼は既に走り出していた。

…バス停に一人って…。

―――数秒後。

サアァー…

誰かがタイミングを計ったように霧雨が降ってきた。

「どこへ行った…全く」

―――恋人の私を置いて何も言わずに行くとは…。

さっきまで聞こえていた小鳥のさえずり,木々のざわめき,風の声は雨に潜めている。

傘のない私はこの小さな木製の小屋から動けない。

何処かで見た光景…小さな小屋の中から銀色の雨が降る山の緑を眺めている場面。

もう,いつだったか忘れた鈍い傷。

全く同じ場面だったが,台詞が違った。

「私を置いてどこへ行くのよ」

同じ雨が降っていた。包み込むような雨ではなく,心に突き刺さるような雨。

「大事なものを取り戻しに行く。もう帰らない」

優はそう言ってバスに乗り,先に帰ってしまった。優が何を言ったのかは雨音にかき消されたが,恐らくそう言ったはず。…あのときも,この小屋から動けなかった。

優の影形すら忘れたのに,声だけはハッキリ覚えていた。

―――記憶って不便だ…。

常日頃から考えていたこと。自由に操作できたらいいのに。

…でも,最近はそう思わなくなってる。

過去の経験は確実に今の自分を作り上げている。それは紛れない事実,そして現実。彼に出会ったのも私が望んだから。望まない出会いなんてものはない。彼に出会ったのは,私自身が心の奥底で望んだから。そして,心で望むことができたのは,過去の経験があったから。だから…過去の記憶は大切なのだろう。

―――もっとも,彼はそう思わないみたいだけど。

「ごめん,美佐子―!」

雨でずぶぬれになった勝が走ってくる。

「何やってるのよ,勝」

私は相変わらずの声で彼を迎える。

「はい,これ」

そう言って彼が差し出したのは,

「…ホントに好きね,これ」

「いいじゃないか」

某メーカーの無糖コーヒーだった。二人ベンチに座り,雨降る景色を眺めながらその間コーヒーを開ける。

まあ,誰でも飲むといえばそうだけど…。

名前,趣味嗜好,声も全く同じ。でも出会って好きになれたのは,

「せっかくの休日なのに雨かよ…」

ぼやく勝の横顔。

―――知ってるよ,2週前から休み申請して残業してたの。

私が知らない,不器用な優しさというものの存在を教えてくれたから。