・この物語はフィクションです
パート5高倉編
はじめに
これは,本編パート5を高倉麻由美の視点で描いたショートストーリーです。
合わせて読むとリアルさが多少増します(^^ゞ
では楽しんでやってください。
さっさと校舎を出ようと昇降口まで来ると,まるで天にある銀の固まりが砕けたかと思うほどの白い雨が降っている様子が。
―――これじゃドラマが見れないよ…。
半ば駆け足になりそうな勢いだったが,いつも教室にある置き傘はこの間家に持って帰ったままだ。
―――ビデオ予約しとけばよかった。
逸る気持ちを抑えながらもやっぱり早く帰りたい。
と,佐紀と複数の足音が。
「ごめん,麻由美」
―――そう思うんだったら走ってよ。
心の中でついつい突っ込んでしまう。しかし佐紀の,作り物でない自然な笑顔を見ると,そんなことはまあいいか,などと思えてしまう。
「じゃ,行こ」
「ちょっと待った。電車動いてるのか?」
―――もう,せっかく走る気になってたのに。
藤井先生のまともな言葉に気を削がれてしまった。だが駅まで苦労して走破したとしても,電車が動いていなければ全く意味がないことに気付いた。
「あ,そういえば,この間も止まってたもんね」
佐紀が先生の言葉を受けて自分に同意を求めた。
「先生,見てきて」
「OK」
先生が一旦職員室へ戻ると,
「先輩,大丈夫ですか?」
「え? なんかあったの?」
なんだか悪いことをしたような佐紀と,後頭部あたりを気にしている様子の先輩。
「転けただけだ…大したことはない」
先輩はそう言いながら鞄を開けて中味を確かめている。
―――ちょっと照れてる…なんか新鮮。
普段はそんなに表情をコロコロと変える方ではないので,その一つ一つが印象に残りやすい。
「葉麻,さっきのマスコット貸してくれ」
「あ,はい」
佐紀は手提げ鞄の中から薄汚れたペンギンを取り出した…って,
「あー! それあたしがあげたやつじゃん!」
「うん…そうなの。ごめんね,うっかり落としちゃって」
―――キーホルダーなのにうっかり落とすかっ!
佐紀と駅前のゲーセンで苦労して取った,ふわふわペンギンのマスコット。
でもやっぱり佐紀の謝る表情には勝てない。
「も〜,大事にしてよ…」
「ゴメンね,2人とも」
「俺は心配しなくていいが…これがな」
先輩は佐紀から借りたあのペンギンマスコットをマジマジと見ている。
「悪いな,高倉」
「ホントだよ,先輩!」
「確か,駅前で取ってくれたんだよね」
「そうだよ。確か,2000円突っ込んだ」
「…2000円か…」
先輩はなにやらあさっての方向を見ながら何か考えている。と,そこへ先生が戻ってきた。
「あ,先生,どうでした?」
「…残念だが,電車が止まってる」
「えー!?」
「しかも,警報も出てたりする」
「えー!?」
―――どーすんのよ…。
「んじゃ,俺帰る」
先輩は先生の言葉を無視してそう言った。
「ダメ」
「なんで?」
「警報が出てる」
「で?」
「教師の使命として,生徒を危険から守るのは義務だからな」
「ほほーう」
―――また,似合わないこと言って…。
「じゃあ帰った方がいいみたいだな」
あっさりと先輩が言い切った。
「…ま,俺もそう思うんだけど…」
先生はこの年になって頭をぽりぽりかく。
「それじゃ」
「待て,今お前が出ると俺が咎められる」
「知るか」
―――ホントだよ。
これじゃ雨がやむまでこんな所で待ってないといけなくなる。…そうだ!
「先生,送ってよ」
こんな時はこれに限る。話の分かる先生なら絶対OK出してくれるし,前例もある。
「あ,俺は免許とってないの」
「えー,そーなの?」
「じゃあ,先生ってどうやって来るの?」
「ああ,俺は市内だからバイクかな」
―――そう言えばそうだった…。
藤井先生はいつも8時頃学校へ来るみたいだが,職員室にいる誰もが彼の到着をその爆音で知るという噂がある。
「まあ,個人の自由だからいいんじゃない?」
という無責任な言葉を言ったのはうちの担任の藤井先生本人。別に通勤とかにはとやかく言わないらしい…生徒の服装やら髪型やらには文句付ける癖に,あの公害以外の何物でもない爆音をほっとくなんて,どういう理由よっ!?
「車はないの?」
「当たり前だろ,免許がなければ意味がない」
―――今時車の運転できないなんて…。
「何それ,ダっさいの…」
「うるさいっ!」
まるでガキみたいに怒る先生。隣にいる先輩の方がよっぽど大人な顔して見える。
しばらく喋っている内に雨が小降りになってきた。
「今のうちに帰る。んじゃ」
「こら,聖志」
腕の時計を見るともう6時を回っている。
「あ,あたしも帰る!」
確か先輩の家って近かったはず。今から家に帰るよりはまだマシだ,ドラマだけでも見てこーっと。昇降口を出ると全速力で走った。
あまりにも必死だったので先輩の後ろを付いていくことだけに専念していた。
で,気が付くと見たことのないマンション。先輩は当然のごとくエレベータの前に立っている。
「お前,陸上部だったっけ?」
「ち,ちが…」
―――もう吐きそう。
未だかつてこんな無茶な激走を繰り広げたことがあるだろうか。約5分も全速力で走るなんて。隣で息の荒い先輩もその無茶な激走をしたはずなのに,軽い運動をした,ってな感じだ。
「大丈夫か?」
そう言いながら先輩は背中をさすってくれる。
「だ,大丈夫…」
その後エレベータでかなり上まで上がり,先輩の後に付いていく。
「全く,ひどい雨だな」
先輩が立ち止まった部屋の表札は,なぜか“吉田賢”となっていた。しかし彼は迷うことなく変な形の鍵を取り出してドアを開け放つ。
「おい,大丈夫か?」
「は…,はい」
まだ息が上がっている。先輩はもう何事もなかったかのようだ。
―――こんなに体力なかったっけ…?
まるで自分が貧弱な人間みたいだ。玄関に入ったものの動けずにいたが,徐々にマシになってきた。
「取りあえず入れよ,疲れただろう」
「いいんですか?」
「構わない」
「それじゃ,お邪魔します」
―――なんだか緊張する…。
廊下一番奥のガラスの填ったドアを開け,リビングに入る。太陽の光が差し込む南側には窓がある。窓の下には壁から壁までサイドボードが配置されており,あまり使われてなさそうなステレオやテレビが置かれている。
男の部屋は散らかっているという固定観念があった。しかし雑然としているのはパソコン周りだけで,部屋全体は案外整頓されていた。
「へぇ…」
でも先輩の人柄を考えれば,どちらかというとこういう感じだと思っていたのかもしれない。
「ほら」
部屋を観察している間に先輩がタオルを貸してくれる。
「ありがと,先輩」
「テレビでも見てろ」
そう言ってキッチンに入り,暖かいホットレモンを出してくれた。
先輩の勧めで遠慮なくテレビを付け,ドラマのチャンネルに合わせる。幸いにも再放送に間に合った。
―――ん〜,やっぱかっこいいね,岡田君は。
ドラマに集中しているあまり,時間が経つのを忘れていた。ふつーのラブストーリーだけど,岡田君がかっこよくていつも見てる。
エンディングになり,ふと先輩を見るとずっとパソコンの前で何かと格闘していた。
すると,壁にかけてあるデジタル時計が無機質な音を放ち,時刻を告げた。
「7時か…高倉,家に電話しとかなくていいのか?」
「あ,そっか」
―――すっかり忘れてたよ。
「電話は後ろ」
「じゃあ借ります」
立ち上がり,ソファの後ろにあるサイドボード上の電話機で家に掛ける。ダイヤルするときに気付いたが,電話線が四角い箱に繋がっている。その箱には液晶パネルとラジオみたいなチューナーダイヤル一つ,それから指で跳ね上げるタイプのスイッチが4つ付いていた。
「先輩,何この箱は?」
「ああ,気にするな。普通に掛けられる」
先輩は振り向きもしないで当然のようにそう言った。でも,それ以上に興味がわかなかったので気にせずにダイヤルした。
しばらくの呼び出しの後,お母さんが出た。
「もしもし,お母さん? 今日あたし,帰るの遅いから」
「今どこにいるの?」
「友達の家。宿題やってるから」
いつもの手だ。
「夕飯はどうするの?」
「いらないよ」
「最近ずっとじゃない。遊び回るのもいいけど,心配掛けないでよ」
「…わかってるってば」
いつもの小言をこの言葉で受け流したのはいいが,
「口ばっかりでしょ,いつも…」
この先は長いので書かない。
普段は挨拶もしないのに,こういうことにだけはウルサいの。お父さんとは結構話すけど,お母さんは仕事が忙しすぎて家にいる時間が限られてるのと,自分との生活時間が違うのであまり顔を合わさない。そして,ちょうど顔を合わす時間が午後6時からの1時間ぐらい。
30分の説得の末,
「やっと説得しました」
―――あ,先輩の名前を出せばよかったんだ。
受話器を置いてから気付いた。先輩は5ヶ月前まで英語の家庭教師で家に来てくれていた。最初は先輩だと分からなかったけど。
「そうか」
先輩は少し苦笑い。
「そういえば,先輩ってここで一人暮らしなんですか?」
「そう」
見た感じそうだと思ったけど,やっぱりだ。
「実家はどこなんですか?」
「ここ」
多少期待したんだけど,先輩は無下にもなくそう言った。
―――ここ…って,え?
「あ…そうだったんですか」
―――そういえば,ご両親いないんだった…。
何か言おうと脳をフル回転させるが,悲しいかな,何も出てこない。
「さ,そこに座れ,夕飯だ」
先輩はそう言いながら慣れた手付きで料理をテーブルに並べていく。
「えっ,先輩って料理できるんですか?」
「まあ,適当に」
―――適当って…ちゃんとした和食じゃない…。
ご飯,お味噌汁は当然だけど野菜炒めと焼き魚。
「いつも作ってる…んだよね,当然」
「ああ。俺以外の人間と一緒に夕食を取るなんて,何年ぶりかな」
そう言いながら勧められた椅子に座る。
―――なんだか,気恥ずかしい…。
先輩と向かい合わせで食事するなんて…夫婦みたい。
「あたしも…4日ぶり」
「なんだ,いつも帰ってないのか?」
「帰ってるけど,誰もいなくて」
「そうか…」
「寂しくないの? 先輩」
淡々と自分の環境を語る先輩を見て,思わず尋ねてしまった。
「慣れだな」
「あたしは慣れないよ…」
「当たり前だ」
「え?」
「お前は実家で,ちゃんと両親がいるのに会えていないから寂しいのは当然だ。俺は一人暮らしで,しかも両親がいないことは分かっている。ま,全く寂しくないかと言われればそんなはずはないけどな」
―――あ,なるほどね…。
そう,家族の生活の形跡があるのに本人たちに会えないのは,余計に寂しく感じるものだ。
「先輩,星野先輩と付き合わないの?」
「なんで」
「寂しいときあるんでしょ?」
「確かにあるが…」
先輩はなにやら考えて,
「でも,寂しいときも必要だとも思う」
「何で?」
「…友人の存在がありがたく思えるから」
少し考えながら返事をする先輩はとても大人びて見えた。
―――PM10:00。
楽しみにしてたバラエティ番組を見る。先輩もリラックスモードでテレビを楽しんでいる…けど,自分はなんだか緊張してる。先輩もさっきからずーっと喋らないし。
「あ,忘れてた」
突然先輩が自分を見た。別に突然じゃなかった気もするけど,少なくともびっくりしたのは確か。
「え,何?」
思わず素で返事してしまった。
「シャワー入った方がいいな。風呂場はこっちだ」
先輩は返事も聞かずに寝室から着替えを持ってくると,風呂場の方へと行った。戸惑いつつも付いていく。
「着替えはここに置いておくから」
「あ,うん…」
まだ戸惑っている自分を見て,
「遠慮しなくていいぞ」
そう言い残して先輩は出て行った。
これって…。
―――もしかして…先輩と…!?
そう考えると一気に緊張してきた。まさか今日こんな事態になってしまうとは,思いも寄らなかった。
―――そんな用意してないよ…。いやじゃないけど…って言うか,先輩なら別にいいけど…でも星野先輩に悪いし…でも星野先輩とは友達だって言ってたし…。
気が付けば更衣室で悩んでいる姿が洗面の鏡に映っていた。
―――というか,早く入ろーっと。
想像より広く綺麗な風呂場に入る。石模様の黒いタイルが敷き詰められ,清涼感が味わえる。
―――でも先輩,全然あたしのこと気にしてなかった気がする。
異性なら多少なりとも意識するはずなのに,全然それが感じられなかった。
そもそも何で自分がここまで走ってきたのかと言うと,あのドラマの再放送が見たかっただけなのだ。あれが終わった時点で午後7時だった。その後流れで家に電話し,先輩の作った夕食を食べて,それからだ…変な緊張が始まってきたのは。
大体男友達の家でこんな時間までいると,男の方がそわそわし出すんだけど…先輩にはそれが見られない。全然普通だ。普段もそんなに感情を顔に出す方じゃないけど,それでも全く変化がないなんて。
―――慣れてるのかな…?
でも遊んでるなら星野先輩が気付かないはずがないし,それを放っておくなんてないと思う。でも先輩は,そのくらいいつもと変わらなかった。
でもあの振る舞い方からして冷静を装っているとは思えない。全くの自然体で話してた。あれで冷静を装っていた,と言われたらその道のプロになれると思えるぐらいだ。
そんなことをずっと考えながら湯船に浸かり,染み付いた雨の匂いを洗い流す。
またもや少し緊張しながら体を乾かし,先輩が貸してくれた大きなセーターとぶかぶかのズボンを着る。定番だが,匂いを嗅いでみる…。
―――洗い立てだ…。
てっきり先輩の匂いがするかと思ったが,几帳面にも洗った後のを貸してくれたようだ。
「ありがと,先輩」
リビングに戻ってそう言ったが,先輩の姿はなかった。と,寝室から先輩が戻ってきた。
「ああ,早かったな」
「うん…先輩も入って」
と,言ってから気付いたが,なんだかかなり恥ずかしい台詞だった。
「ああ…もう少し後でな」
そう言う先輩は,やっぱり普通だ。まるで男友達…いや,ペットのレベルで対応してる。
―――あれ? あたし,勘違いしてる…?
内心結構混乱してたが先輩はまたパソコンの前に座って,横のテーブルでなにやら大量の紙と格闘し始めた。
「自由にしててくれ,俺はやることあるから」
「あ,うん…」
―――もしや,期待外れ…? いや,別に期待した訳じゃないけどっ!
拍子抜けしたのと,安堵が同時にやってきた。でもまだ夜は長い。
AM0:00,先輩はずっとパソコンの前にいる。
―――いい加減寝たい。
「高倉,もう寝ろ」
といい具合に先輩が声を掛けてくれた。
「…先輩も,寝ようよ」
ホントは,先輩はどこで寝るのと聞きたかったが口が回らなかった。
「もうちょっと」
先輩はこっちを見ないでそう言い,
「先に寝ろ,ベッドはあっちだ」
と後ろ手で寝室のドアを指さした。
「ふぁ〜い」
もう寝ることしか頭に浮かばなかった。そのまま寝室に入り,ベッドらしきものに体を横たえる。掛け布団を掛けたのか記憶はないが,寒くないのでいいんじゃないかな…。
―――おい,起きろ!
いきなり大きな地震が起きたのかと思うほどの揺れ。少し驚きつつ目をこじ開けると,先輩が珍しく慌てた感じで自分の肩を掴んでいた。
「……あ,先輩,おはよう…」
「早く立て,ベランダに出ろ」
唐突に訳の分からないことを言われた。
「え…どうして?」
「いいから早く,暫くの間何も喋るな,いいな!」
「え…あ,はい」
思考回路がまだ寝ているので,とりあえず返事だけした。すると先輩に抱き起こされ,まるで手筈通りと言わんばかりにベランダに置かれ,
「いいか,10分して俺がここに来なかったら,この携帯の短縮ダイヤル1を使え」
そう言って携帯電話を押しつけられる。
「え…どうしたの,先輩」
全く事情が分からないままそう尋ねるが,
「じゃあな!」
そう言い放ったかと思うと先輩はガラス戸を閉め,なんと鍵を掛けた。
―――って,どういうこと!? あたし,何か悪いことしたかな…?
と考えていると,リビングの方でなにやら物音がする。気になるが,ここからでは見えない。
ガッシャアアン!!
―――え!?
はっきりと分かるほどの,ガラスが割れて飛び散る音。と,続けざまにパスッ,パスッと何か抜けたような音が連続した。
バァン! バゴッ!
その音を聞いた途端,背筋が凍った。自分の耳を疑いたかった。幻聴だと思いたい。だが自分の動物的本能が,確実にこの音に対して警告を発していた。
―――早く,逃げないと。
最初に脳が命令したのはそれだった。だがここは地上12階のベランダ,逃げるのは絶対無理。
―――先輩が,拳銃を使って何者かとやり合ってる。
直感だった。あの温厚な先輩が,さっきまで自分と話していた先輩が拳銃など持っているはずがない,という常識的な考えは通用しなかった。
拳銃を持つということは,誰かを殺すということだ。でもそんなことが一人でできるはずがない。音からして何人か複数の人が先輩を殺そうとここにやって来たはず。
バスッ,ドゴッ!
銃声が聞こえる度,気が付けばさっき先輩に押しつけられた携帯を,汗ばむほど握りしめていた。奥歯がカチカチと恐怖のリズムを刻み始め,足が竦む。
―――怖い。
ただその感情だけが脳裏を支配した。辛うじて理性を保っていられたのは唯一の命綱である携帯を手に握っていたからだ。
“10分して俺がここに来なかったら,この携帯の短縮ダイヤル1を使え。”
これが自分に与えられた唯一成し遂げられること。
―――来なかったら…って……っ!
つまりそれは死を意味する。先輩は,自分が死んだらこれを使えと言ったのだ。当然先輩が死ぬということは,唯一自分を守ってくれる人間がいなくなるということだ。
―――先輩,死なないでよね,絶対死んじゃダメだからね! あたしヤだよ,殺されるの!
人間として最低と言われようが,この際自分を守ってくれる存在ならば誰でも良かった。あの襲ってきた人間から守ってくれる人ならそれでいい。その後で代償として体を求められても別にいい。それで自分の命が助かるならば,喜んでその道を選ぶ。
…と,気が付けば静寂が辺りを支配していた。
―――どうなったの?
するとガラス戸を開ける音がした。一瞬驚いたが,
「もういいぞ,入れ」
先輩がそう言った。
―――よかった…。
死ななくてすんだ,その一点で安堵した。だがその後に自己中心的な自分に対する嫌悪感がわき上がってくる。その恥ずかしさで顔を見せられない。
「大丈夫だ,入れ」
恐怖もあったが,その羞恥の方が大きかった。でも,なんだかそのことすら分かっているかのように先輩の声は優しく聞こえた。
「……な…なに? 今の騒ぎ…」
尋ねたいことはたくさんあったが,これを聞くのが精一杯だった。
「気にする必要はない。お前はもう少し寝てろ」
まるで何もなかったかのように先輩は言った。でもその視線はいつものように鋭いものではなかった。
ふと,赤いものが視界に入った。
「!…先輩,右腕…」
先輩の負傷した右腕を見て驚愕した。
―――怪我してる! まさか,さっきので…!?
それ以外考えられない。
「心配ない,気にするな」
先輩はそう言うけど,思いっ切り出血してるのが分かる。黒いシャツを着てるけど,右腕の二の腕付近が赤黒く染まっている。
でもああいうことをしてる人にとっては,こういうのはしょっちゅうあるのかもしれない。現に先輩は平気な顔をして…いや,ちょっと心配そうな顔で自分を見ている。
―――自分を差し置いて,何で他人のことをそんなに心配できるんだろ…?
自分にはできないということは,さっき証明されたばかりだ。
「…」
そんな自分に対して心配している先輩には,何も言えなかった。
「大丈夫」
先輩が安心させるように言ってくれた。
「…分かりました」
そう言って寝室に戻る。寝室のドアは閉められていた。
「向こうは…どうなってるの?」
「想像通りだ」
―――…。
映画でよくある死体が転がったシーンを想像してしまった。でもそれは所詮作り物。この部屋にいても微かに感じる血液に混じる鉄分の匂い,先輩が恐らく今も持っていると思われる拳銃が発する硝煙の残り香,そして一番リアルな,何事もなかったかのように静まるリビングの不気味さ。
まだ不安を拭えないままベッドに横たわる。
「匂いが気になるか?」
「あ,うん…ちょっと」
このままじゃ夢に出てきそう。
「悪いな,これで我慢してくれ」
そう言ってピンク色の,ラヴェンダーの芳香剤をベッド横のテーブルに置いた。
「あははっ」
さっきまでやってたことと,その可愛い芳香剤のデザインとのギャップがなんだか面白かった。
「取りあえず適度な時間に起こすから。好きなだけ寝てろ」
どっちが本当の先輩なのかなんてどうでもいい感じがした。むしろこのギャップが先輩の味なんだと思う方が,なんだか面白い。
「…ありがと」
「いや,怖い思いさせて悪かった」
―――先輩って,いつもあんなことしてるの?
そう尋ねようと思ったが,あまりにも現実離れしたことがそんなに回数あるとも思えない。でも今,寝室の奥で自分の右腕を治療している先輩は,まるでいつものことのように手際よく応急処置の包帯を巻いている。
―――同年代の女の子が夜部屋にいても,それだけで動じる理由にはならないかも。
自分には多少自信を持ってるけど,あんな刺激と比べられるわけがない。死がすぐ隣にあるあの状況の中,自分を取りあえず逃がし,それでいて先輩自身のことも自分で守れてる。
―――本当にただ1歳違いの人なの?
でも多分,学校で会うと今日学校で会っていた先輩と同じなんだろうな。
なんだか先輩の秘密を手に入れた感じ。
「先輩」
「どうした?」
「口止め料,どうして欲しい?」
「…ペンギンのマスコットで許してくれ」
「あっははっ,いいよ」
あとがき
初めて高倉麻由美を使って書きました。
時間の加減で結構荒い仕上がりになってしまったと思いますが,我慢してやってください。またリクエスト等あれば検討します。あくまで,検討だよ(^^ゞ