「佐紀遅いよ〜」
案の定,高倉が首を長くして待っていたようだ。
───ホント,仲がいいねぇ。
「ごめん,麻由美」
「じゃ,行こ」
「ちょっと待った。電車動いてるのか?」
藤井がとんでもないことを言う。
「あ,そういえば,この間も止まってたもんね」
「先生,見てきて」
「OK」
彼は職員室に向かった。
この学校に一番近いのは東北線の東高崎駅で,東は焼摩駅,西には高崎駅があり,それぞれの方向には鉄橋がある。この間の大雨で東高崎〜焼摩の間に流れている叙豆川が増水し,5時間ほど不通になり,家に帰れない生徒が学校に立ち往生したのだ。
幸い今日は放課後なので生徒はほとんど帰った後だ。
「あ,先生,どうでした?」
「…残念だが,電車が止まってる」
「えー!?」
「しかも,警報も出てたりする」
「えー!?」
彼女等は驚いているが,聖志には関係のないことなのだ。
「んじゃ,俺帰る」
当然の如くそう言ったが,
「ダメ」
藤井が止めた。
「なんで?」
「警報が出てる」
「で?」
「教師の使命として,生徒を危険から守るのは義務だからな」
「ほほーう」
高倉は真面目ぶった藤井が珍しいのか,次の言葉を待っている。
「じゃあ帰った方がいいみたいだな」
「…ま,俺もそう思うんだけど…」
頭を掻いて言う彼。
「それじゃ」
「待て,今お前が出ると俺が咎められる」
「知るか」
「先生,送ってよ」
高倉が堪り兼ねて言った。
「あ,俺は免許とってないの」
「えー,そーなの」
「じゃあ,先生ってどうやって来るの?」
「ああ,俺は市内だからバイクかな」
そんな無駄話をしている間に雨が少しおさまってきた。
「今のうちに帰る。んじゃ」
「こら,聖志」
「あ,あたしも帰る!」
と,藤井の声はそっちのけで聖志が走る。その後に続いたのは高倉だった。さすがに葉麻は思いとどまったようだったが。
「全く,ひどい雨だな」
やっとのことでマンション11階にたどり着いた。
「はぁ,はぁ…」
横で,苦しそうに肩で息をしているのは高倉。学校からここまでの600mを全力で走ってきたのだ。
「おい,大丈夫か?」
「は…,はい」
取りあえず鍵で妙に分厚いドアをあけ,中に入る。
真っ暗な室内に電気を点ける。
鞄の中身を取り出し,鞄をソファの上に投げる。鞄の中身といってもパソコンだけだ。
「取りあえず入れよ,疲れただろう」
聖志はまだ玄関先で中腰状態でいる彼女に言った。
「いいんですか?」
「構わない」
「それじゃ,お邪魔します」
玄関を上がると,すぐ左には白いドアを挟んでキッチンがあり,右には風呂場へのドアがある。短い廊下を進むと,8畳一間のリビングルーム。太陽の光が差し込む南側には窓があり,窓の下には壁から壁までサイドボードが配置されており,あまり使われてなさそうなステレオやテレビが置かれている。
「へぇ…」
「ほら」
意外にきれいな部屋に感心している後ろからタオルが手渡された。
「ありがと,先輩」
「テレビでも見てろ」
そう言ってソファを薦めた。
聖志は鞄から取り出したパソコンを部屋の東に置いてあるデスクトップに繋ぎ,起動させる。
カチッ…フィーン…
デスクトップ特有の音が鳴り,起動した。
今日仕入れたデータを調査日誌とともに打ち込む。
───校長を調べたが,収穫はなし。やはり教頭が独断でやっている可能性が高い。ついでに,この間教頭のディレクトリにあった経歴ファイルが移動されてあった。
経歴ファイルがあればかなり有用だった。今になって後悔した聖志であるが,いずれ分かるであろうと思い直した。
───ぴぴっ
壁にかけてあるデジタル時計が時刻を告げた。
「7時か…高倉,家に電話しとかなくていいのか?」
「あ,そっか」
今思い出したように彼女は立ち上がった。
「電話は後ろ」
「じゃあ借ります」
そう言って彼女はソファの後ろの電話台に手を伸ばす。
その間に聖志はキッチンで簡単な夕飯を作る。いつもならコンビニへ向かうところだが,こんな大雨の中をもう一回走るなんてごめんだ。
「…わかってるってば」
リビングでは彼女が電話をしている。恐らく親と話しているのだろう。親は,普段は子供を放っておくくせに,こういうこととなるとガタガタと戯言を並べるのだ。
夕食を暖めている間に風呂を沸かす。久しぶりに生活らしい生活をしているような気になっている。
「やっと説得しました」
ようやく長い電話から開放された彼女。
「そうか」
「そういえば,先輩ってここで一人暮らしなんですか?」
「そう」
「実家はどこなんですか?」
「ここ」
「あ…そうだったんですか」
聖志に両親はない。
「さ,そこに座れ,夕飯だ」
と,適当に作った夕飯らしい夕飯を食卓に置く。うまく気まずい雰囲気を回避できた。
「えっ,先輩って料理できるんですか?」
「まあ,適当に」
そうこう言いながら普通に家族のように食事をした。人と夕食をとるのはかなり久しぶりである。無口ではあったが,彼は結構嬉しそうだった。
───AM0:00。聖志はいつものようにパソコンの前に座って作業をしている。
取りあえずシャワーを浴び,聖志の服に着替えた高倉は深夜のバラエティーを見ているのか見ていないのか,眺めている。
「高倉,もう寝ろ」
「…先輩も,寝ようよ」
もう寝かけの,鼻に掛かった声。
「もうちょっと」
聖志はどうにか学校のサーバーをハッキングできないかと試行錯誤している。
「先に寝ろ,ベッドはあっちだ」
聖志は後ろ手で寝室の扉を指す。
「ふぁ〜い」
今度は素直に従い,おとなしく寝室へ向かった。
───やっと寝たか…。
と,家の電話が鳴った。
「もしもし」
「俺だけど」
この声は藤井である。
「どうした?」
「お前,今ハッキングしなかったか?」
「え? どこからかけてる?」
「ふふ,学校のPCルーム」
どうやら学校に居残ったらしい。
「おお,いいところにいたな。で,入り込めてるのか?」
「何か, 文書らしきものが送られてきたんだけど」
その後ろではカチャカチャとキーボードを叩く音がしている。
「なんて書いてある?」
「純のばかー」
純とは,藤井の名前である。
「OK,ハッキング成功だ。これからはどんどん侵入できるぞ」
「そこからLANに侵入できるか?」
「やってみる。小一時間ほど待ってくれ」
「分かった」
───AM3:05。
ぷるるるるる…
電話が鳴った。
「もしもーし」
「聖志,どうだ?」
「…できない」
半分諦めの入った声で言った。
「ダメか…」
「どうしても何かに邪魔されてる」
「うーん」
家に居ながらにして学校内LANに侵入できれば,捜査もかなり楽になるのだが。
「プログラム組んでみるから,後1時間ほど待って」
「OK」
そう言って受話器を置く。
「はぁ」
聖志は柄にもなくため息を吐いた。
気分直しにビールでも飲もうと,キッチンに入る。
───しっかし,だるいなぁ。
今回のようなコンピュータハッキングは初めてではないにしろ,学校サーバー内LANに侵入するような2重侵入は初めてである。
冷蔵庫にあったビールのプルタブを開け,一口飲む。
「ふぅ」
彼は気分を入替え,もう一度ハックすべく,パソコンへ向かおう…としたとき。
ガダッ!
玄関の方で妙な物音がした。
キッチンのドアの横で聖志は神経を研ぎ澄まし,息を殺して様子を探る。こういう仕事をしていると,どこからか刺客がやってきたりするのだ。
扉のガラスを挟んで見る玄関口には誰もいない。
───今のうちか…。
聖志は取りあえず護衛の為の銃を取りに行くことにした。
慎重にキッチンのドアを開け,壁に背中をくっ付けてリビングへ駆け込む。
急いでパソコン台を押してパソコンを物置の中に入れ,ノックを忘れて寝室に入る。
ベッドで寝息を立てて寝ている高倉を起こさないように,4段になっている書類ケースからサイレンサー付き[i]グロックを取り出し,脇のホルダーに入れる。
リビングに戻ると,明かりを消し,ドア一枚を隔てた壁に張り付く。
マガジンをチェックし,[ii]レーザーサイトのスイッチを入れる。
ゴズッ! バスッ!
と同時に,玄関のドアを銃撃する音が聞こえてきた。
幸いにもドアは防弾仕様なので柔な攻撃では突き破れない。
───取りあえず逃がした方がいいか…。
そう考えた聖志は寝室に入り,高倉の肩を揺らす。
「おい,起きろ!」
「……あ,先輩,おはよう…」
まだ寝ぼけ顔の彼女を無理に起こし,
「早く立て,ベランダに出ろ」
「え…どうして?」
「いいから早く,暫くの間何も喋るな,いいな!」
「え…あ,はい」
てっきり朝だと思った彼女は外の暗さに少し戸惑った。
聖志は有無を言わさず彼女をベランダに出し,時計を手渡す。
「いいか,10分して俺がここに来なかったら,この携帯の短縮ダイヤル1を使え」
「え…どうしたの,先輩」
彼女は何も分かっていない。当然ではあるが。
「じゃあな!」
そう言い残して聖志は部屋に戻り,内側から鍵をかける。
ゴガン!
派手な音を立てて,玄関のドアが蹴破られた。
聖志は息をつく暇もなく,玄関先の人数を見る。
───3人か。
そのうちの一人が聖志を発見し,発砲して来る。
ガシャーン!!
リビングのドアは防弾仕様ではないので簡単に吹っ飛び,派手な音を立ててガラスのかけらがあたりに飛び散る。
聖志は,奴等をリビングに入れてはならないと思い,ドアの影から発砲する。
ドゴッ! ドゴッ!
サイレンサーがついているのでそんなに音は広がらない。ブローバックの衝撃が聖志の左腕にかかり,薬莢が飛び出す。
その弾丸は一人の心臓を正確に打ち抜き,倒す。しかし残った2人は発砲しながらの前進を止めない。聖志は近くにあった車付きのソファを廊下に向かって勢いよく蹴る。運のいいことに,壁にあたらずに真っ直ぐ突進する。突然の攻撃に驚いた一人が倒れ,その隙を突いて聖志が仕留める。それを見て状況を不利と判断したか,残った一人は撤退した。
「ちぃ,やりやがったな…」
気が付くと右腕に掠り傷を受けていた。掠りとは言え,出血している。
取りあえず,ベランダに出しておいた高倉を部屋に入れに行った。
ベランダのガラス戸の鍵を開ける。
「もういいぞ,入れ」
と,よく見ると肩を震わせて脅えている様子だ。
「大丈夫だ,入れ」
できる限り優しい声をかけると,彼女は顔を上げた。
「……な…なに? 今の騒ぎ…」
「気にする必要はない。お前はもう少し寝てろ」
「!…先輩,右腕…」
高倉は,聖志の負傷した右腕を見て驚愕した。
「心配ない,気にするな」
「…」
彼女は何か言いかけたが,途中で止めた。
「大丈夫」
もう一度聖志が言った。
「…分かりました」
高倉は大人しく引き下がった。
───6月2日,3時限目。
あの後,高倉を送り出した後,JSDOに死体の処理を任せて部屋を出てきたのだ。学校にはこの時間から登校した。右腕の処置もJSDOの救急班にやって貰った。
幸いにもコンピュータのデータはやられなかったので一安心した。バックアップを取ってなかったので,あの時点でコンピュータを破壊されていると情報がパーだったのだ。
学校側には病気ということで話をつけてある。銃声は部屋の外には聞こえなかったようで,付近の住民には何もばれていない。
高倉には今のところ何も言っていない。ま,近々話すつもりではいるが。
気が付くと,授業が終わっていた。
すると,廊下から見たことのある姿がやってくる。
「聖志,今日は予定ある?」
「今日はないな。会議か?」
「そう。4時に会議室ね」
舞は妙にそわそわしている。
「…おい,どうした?」
「え?」
「何か違うぞ。お前」
「へぇ,よく分かったね。実はね…」
そう言って耳打ちする。
「───ほほう。そんな情報をどっから?」
「直接聞いたの。これは確実よ」
「そうみたいだな」
「じゃあ,そういうことで」
「ああ」
───PM4:05。
会議室には広報部員が全員集まっていた。全員召集されるのは珍しいことで,聖志は初めて全員が揃っているところを見た。
聖志はやはりパソコンの前に座る。ある意味,彼の専用席になってしまっている。
「えーっと,全員揃いましたね。それじゃあ会議を始めます」
担当の教師もいないまま,舞が勝手に会議を始めた。全員起立して礼をする。
「今日は結構大きな情報を手に入れました。…何と,あの前北先生が,結婚するそうです」
「おおおーっ!!」
この情報は初公開らしい。集まった部員も大きな情報に歓声を上げる。
「で,前北先生にインタビュアーを派遣します。結婚するまでの経緯と,彼氏の情報を手に入れて貰います。この仕事は,いつもネタ集めをしてくれている方々にお願いします」
ネタ集めをしている部員数は20人。そのうち4人が受験勉強をすると言って辞めたが,残り16人いれば人手は困らないであろう。
「では,16人のうちインタビュアー8人,それを記事にする人を8人当てます。やりたい人は黒板に名前を書いてください」
そう言うと,舞は部屋の隅にあるパソコンの横に来る。
それを合図に男子どもが凄まじい勢いで一斉に黒板前に殺到する。
「西原はいいのか?」
部員の一人の森安剛司。舞と同じクラスである。
「ああ,俺あいつダメなんだ」
「じゃあ遠慮なく」
あっという間に埋まる黒板。当然の如く,インタビュアーの人気は高い。
「そうだったの?」
「え?」
「前北先生が,苦手ってこと」
「ああ。妙に堅い人で」
「へぇ…」
聖志は本心を述べながら,インタビュアーのメンバーをメモる。
「インタビュアーは8人よ,溢れたんならどうにかして決めてください」
───いい時期に結婚したな,前北教諭。
「ふっ」
「どうしたの?」
舞が,突然鼻で笑った聖志に尋ねる。
「いや。おめでたい事だな,こんな時期に」
多少の皮肉を込めて言った。
「…」
これに関しては舞は何も答えなかった。
先日の全校集会で,大嶋の事件は全生徒に知れ渡り,大嶋はそのお陰で1週間の間休校している。その友人の前北が反論したにもかかわらず,こうして結婚するという,何とも言いにくい状況である。生徒の彼女への信頼感も落ちるという事は否定できない。
「星野,決定したぞ!」
「あ,じゃあ解散します。仕事は追って連絡しますから」
舞はたった8分で解散命令を出した。ま,部員は早くすんで良かったのだろうが。
聖志はパソコンにメンバーを打ち込む。
「じゃあ,私帰るね」
と,踵を返したが,くるりと振り返り,
「危ないことしちゃだめよ」
彼女の何気ない一言に,聖志は思わず彼女を見た。
「じゃあね」
舞は優しい笑みを浮かべ,そう言った。
「───さすが」
聖志はブレザーの袖から右腕の包帯が見えている事に気付かなかったのだ。伊達に17年付き合っているわけではなかった。
「いい関係だな,聖志」
聖志一人だった教室にタイミングよく入ってきたのは,広報部担当の藤井。
「ホントだよ」
照れもせずに彼は言った。
「彼女にはバレそうだな」
「別に構わないさ,あいつは余計な口を挟まないし,余計な事を言わない」
「そうか」
旧型のプリンターが唸り,印刷が始まる。
「ところで,さっき聞いたと思うけど」
「ああ,前北さんの結婚か」
藤井は手近にあった椅子に座り,足を組む。
「そう。お前はどう取る?」
「ま,いいんじゃない? 都合のいい護衛役か」
刺客からの護衛役である。
「やはりそう思うか」
「でも,逆のパターンもある」
「逆だと?」
「つまり,結婚相手が刺客だ」
藤井は腕を組み,
「なるほど。それもあるけどな…」
「それにこんな時期に結婚する事で,生徒からの信頼も落ち,マズい立場に追い込まれる事になる。これは考え過ぎかもしれないけど」
「ま,そういう効果を狙ったのかもしれないが」
「けど,どうやって相手の情報を得る?」
結構重要なことである。
「そうだな…大嶋先生なら知ってるかもしれない」
藤井はそう言ったが,ごく当然かも知れなかった。
「…あ,友人だしな」
「ああ。今度聞いておいてくれ」
「何で? 藤井が直接聞けば?」
彼は少し困った顔をして,
「知ってるか? 俺と大嶋先生は同い年だ。それで結婚相手の事を聴くとなると…」
「誤解されるってか?」
「わかってるのか。じゃあ話は早い。家は俺が教えよう。それに,お前の方が俺より信頼されているだろ」
この間,彼女を助けたのが聖志だからである。
「OK,分かった」
藤井は胸ポケットから取り出した煙草に火をつける。
「そういえば,昨日は大変だったらしいな」
「ああ,お陰でこれだ」
そう言って青いブレザーの袖を捲る。
「包帯なんて,大袈裟だな」
「それは救急班に言ってくれ」
「しっかし,お前もやるな,高倉を連れ込むとは」
「ああ…って,何で知ってる?」
「親から電話があった。お前の名前を出したら安心してたけど」
実は藤井は高倉のクラスの担任である。聖志はつい数ヶ月前まで,家庭教師のアルバイトで彼女の家に行っていたのだ。
「そうだったのか」
「高倉には話したのか?」
JSDOのことについて,である。
「いや」
「そうか。俺が適当に話をつけるから,お前は気にするな」
「ありがたい」
大人の言葉であれば,多少嘘が混じっても信頼度でカバーできる。
聖志は印刷されたプリントを渡し,
「じゃあ今日は帰る」
「ああ。じゃあ」