この物語はフィクションです。登場する人物,地名,組織は全て架空のものです。

 

 

───ちょうど昼飯どきを過ぎたばかりの5時限目の授業。彼はシャーペンを弄びながら3階からの景色を眺めていた。

高崎市立中央学院高等学校,この辺りでは一番大きな学校である。

港町であるこの町は近くに大きな漁港があり,朝はその隣の市場で競り市がなされる。北側にはJR東北線の駅。その駅前通りを抜け,小さな池に沿った緩やかなカーブを描いた坂道を下ると,この学校がある。

彼は市内に住んでいるので電車を使うことはないが,市外から通っている生徒は毎朝ラッシュにもまれながらこの学校までわざわざ授業を受けに来る。彼にしてみれば,他人事なので別に気にはしていない。

2年D組西原聖志。彼の名前である。彼はこの町で一人暮らしをしている。

「では,ここには何が入るか,男子9番西原」

さっきから黒板の前で授業を進めている教師の声。満腹感に浸りながら外の景色を眺めている彼には当然聞こえるはずがない。

「ちょっと西原君,あたってるよ」

隣の女子がこっそりと耳打ちした。

彼は特に驚いたわけではないが,すぐに黒板を見ると,英文の間に空欄があった。

「had」

彼は起立もせずに言った。

「じゃあ,なんでそれが入るんだ?」

「過去完了」

間髪入れずに言い切る彼。

「その通りだ。じゃあこの文の訳を…」

前の教師のつまらない授業は淡々と進められる。

「サンキュー,平本」

隣の女子である。彼はたびたび彼女にこのようにお世話になっている。

彼女は笑って答えた。平本京子―――彼女の名前である。細かいところに気が付き,人の世話を焼きたがる,と言う聖志にとっては都合のいい存在だったのだ。彼は彼女にそれなりの好意は持っているが,恋愛感情のそれではない。

5時限終了のチャイムが鳴ると,基礎英語の教師は勝手に出ていった。それと同時に教室内が再復活する。

「過去完了なんて,いつやったの?」

平本が感心したように尋ねてきた。

「昨日の授業で最後の30秒に言ったのを聴いただけ」

「でも,それを間髪入れずに言うのはなかなかできないわよ」

「俺も適当だったし,間違えば聞けばいいことさ」

彼はさも興味なさそうに軽く流し,勉強道具を机の中に押し込んだ。

時計を見るとPM2:20を指している。彼は,平本が更に何か言おうとしたとき,席を立って廊下に出た。もちろん彼は彼女の行動を知らなかった。

2教室向こう側の屋上への階段を上り,立入禁止のドアを造作もなく開け放つ。

彼は将来を決め兼ねている2年生。学校での成績は極めて平均,しかし英語の能力が校内トップなのだ。しかも受験生を押しのけて,模擬テストでは必ずトップである。

わけあって彼はとある機関に所属している。この学校の極秘調査の為,彼に調査命令が回ってきたのだ。

この学校では禁止になっている携帯を取り出して本部に掛ける。

「聖志か」

「本部長,昨日の調査ではそれらしきものは見当たりませんでした」

「そうか」

「対象人物はまだわからないんですか」

「我々も全力を尽くしている。もう少し頑張ってくれ」

「お願いします」

そう言うと彼は携帯を内ポケットに隠し,階下へと降りる。

彼は6時限の授業を受けるべく,教室へ入る。

「西原,C組の星野が来てたぜ」

教室に入るなり,いきなり話し掛けてきたのは悪友の飛島謙太郎。

「そうか」

「お前,付き合ってんのか?」

少々冷やかしぎみに上目遣いで言う。

「ただの部活の関係」

「あ,そうか」

飛島は納得して席についた。

聖志は校内広報部に所属している。部長は先ほど訪ねてきた星野舞。部員数は結構人気があって30人。そのほとんどが2年生である。

彼は入ってきた情報をワープロでタイピングすると言う,非常に簡単だが量の多い仕事を担当している。恐らく今日も仕事をしろということなのだろう。

などと考えていると,遅れ馳せながら教師が入ってきた。

国語の置田教諭である。

―――今日は漢字のテストだった。忘れてた。

いつもの小テストのようなものなので,周りと相談しながらするのが日常茶飯事だ。

彼はそんなテストを受ける気は毛頭なく,星野に携帯でメールを打った。

「今日は帰る」

静寂の時間の中,今日の調査のプランを立てた。

―――昨日は1年教諭だったから今日は2年か。しっかし面倒だな,1学年に13人とは…。

彼はポケットの中にあるはずの,職員室の合鍵を確認した。

「授業終了までに溜まってる分やって」

すぐさま返事が返ってきた。

───授業終了まで?…って,あと40分しかない。

「じゃ,テストはそこまで。授業を進めるぞ」

都合のいいことに,いきなりテストが終了した。

生徒たちが机の中の教科書を出したが,聖志はモバイルパソコンを取り出し,広報部の溜まっていた原稿をタイプし始めた。もちろん,教師にはバレないように机に隠してやっている。隣の平本には見えているが,こんなことはよくあるので彼女も気にかけない。

机の上に置いたノートを見ながらキーボードを叩く。できるだけ音を静めてやらなければならず,辛い思いをしている。

───キーンコーン…

6時限目終了を知らせるチャイムが鳴る。しかし彼は集中しすぎている為,全然気づかない。

「西原君…」

と,その声に顔を上げると全員起立している。彼は慌てて立ち上がる。

「礼!」

学級委員の声が聞こえると,教師は出ていった。

「また世話になったな」

「何してたの?」

彼は座り直して机の中に押し込んだパソコンを取り出す。

「広報部の新聞作り」

この学校では広報部の『校内情報』を毎月発行している。教師,生徒ともに結構な評判で,広報板に張り出したりもしている。

「あの校内情報?」

「そうそう」

「へぇー,あれって西原君が作ってたの?」

「んー,ちょっと違うけどそんな感じだな」

実際は部員が書いた原稿から,使えそうなものを探してまとめる仕事である。

「すごいね,そんな仕事やってたんだ」

「仕事じゃないけど」

彼が何気に時計を見ると,PM3:50。

「っと,俺行く」

そう言って鞄を持つ。

「うん,じゃあ」

彼は背を向け,少し手を振って応えた。

 

「聖志!」

後ろから声をかけられるが,振り返らない。

「ちゃんとできたぞ」

「よくできたわね,40分で」

何やらニヤついて言う星野舞。

「お前な…」

「ま,いいじゃない,できたんだし」

そうこう言いながら部室に着く。

扉を開けると数名がすでに集まっていた。

「あ,先輩」

何やら喋っていた女子が振り返る。

彼女等は今年入学した1年生。広報部は6割を女子が占めており,3年生はおらず,2年生19人,1年生11人の計30人である。

「こんにちは」

「ちーす」

彼は軽い挨拶を返すと,早速広報部専用のパソコンの前に座り,データを移す。

「じゃ,みんな座って」

広報部長の舞が黒板前に立つ。最初は渋っていたが,慣れると自分からいろんな仕事をするようになった。これだけの統率が取れているのも彼女の才能のおかげかもしれない。

今日出席しているのは1年生ばかりの4人。

「校内情報6月号が後1週間で締切りです。レイアウトも気合いを入れて頑張りましょう!」

元気よく言う彼女を尻目に,聖志はパソコンをカチャカチャいじっている。

「…以上です」

特に言葉を続けるわけでもなく,彼女は言った。

いつもこんな感じで,無駄な報告はしないのが彼女である。部員には,担任のようにだらだら話さないので好評である。

「じゃ,レイアウト班は作業をしましょう」

1年生4人はレイアウトを担当している。しかし,聖志が原稿をあげないとなかなか具体的な配置が決まらないのだ。

「先輩,まだなんですか?」

1年B組の高倉麻由美が聖志の後ろから言う。

「もーちょっと待って。文書校正するから」

「今回はやけに遅いわね」

舞が出席をつけながら言う。

「なかなかいいのがなくて」

半分本当の事を言う聖志。

「みんな情報集めに苦労してるわ」

原稿作成の為のネタを集めている者は20人いるが,今月は校内で球技大会が中止になったので,話題がなかったのだ。中止原因は,当日が雨天だったので,と公表されている。しかし順延すればいい話であるが,それを行わなかったのだ。

───学校資金横領事件。

球技大会の1週間前にこの事件が起こった。生徒に情報は隠蔽されており,マスコミでさえもこれは取り上げられなかった。不審に思った県教育委員会は,警視庁に調査を依頼。しかし警視庁がこの事件を調査すると結構大げさになる可能性があるので,この事件を日本極秘工作員派遣機関(JSDO)に調査を依頼し,聖志が担当することになったのだ。この学校にはもう一人,潜入している聖志の同僚がいる。

「どうだみんな,進んでるか?」

いきなり扉をあけて入ってきたのは広報部担当の藤井教諭。聖志より少し遅れてこの学校に来た,工作員の一人である。26歳の彼は,2年生の化学を専門に教えている。もちろん,聖志も教わっている。

「もう少しで原稿があがります。レイアウトはまだ…」

部長の彼女が報告している。

「ま,後1週間あるし,大丈夫だろ」

彼は軽く受け流した。

「でも,明後日から中間テストだし,校内情報ばかりにも時間を割けませんよ」

そう言ったのは1年F組の葉麻佐紀(ようま・さき)。成績は現在至って中堅だが上昇中。

「…そういえばそうだな…おい,聖志」

藤井教諭は彼に対しては名前で呼ぶ。他の生徒も知っているので違和感はない。

「なに?」

「明日までに完成させてこい」

「何を無茶なことを…。俺だって勉強しないと」

聖志は言い訳を考えた。

「お前から勉強なんて言葉が出る自体,おかしな話だ」

「え,先輩って偉いんじゃないんですか?」

佐紀の一言。

聖志はそれを黙って聞き流す。

───しばしの沈黙。

「よーしできた」

しばらくすると,横に置かれている巨大な旧型のプリンターが唸り出す。

「じゃ,俺帰るわ」

聖志はそう言って立ち上がった。

「じゃあ,レイアウト班は頑張りましょう」

部長の舞が1年生を統率して作業を始めた。

「じゃ,またな」

「うん」

そう言いながら,藤井に目で合図を送る。彼も頷き返す。

 

───PM6:00。ちょうど部活が休憩時間に入る。5月後半,晩春ということもあって空はまだ太陽の光を反射して赤く染まっている。しかし,光の当たらない中庭は結構薄暗く,校舎の中からも木々が邪魔して見通しが悪い。

それを利用しているのは聖志である。窓の壁の真下に座り込み,ノートパソコンを開く。2年教師全員の個人データを集め,所持金額を調べている。誰が学校資金を横領し,何に使おうとしているのか,それを調査するのが彼の使命である。

2年生担当の教師は13人。そのうち怪しいのは数学担当の山松教諭,生物担当の横石教諭,保健体育担当の相田教諭,日本歴史担当の若井田教諭,コンピューター科学担当の鴇田教諭の5人。

彼等に共通しているのは,この学校創立から,ずっと移転していないことである。

この学校が新校舎になったのは9年前。通常では3年当たりで移動するはずだが,何故かここに居座っているのだ。聖志には,偶然とは考えられなかった。

───これじゃデータ不足だな…。

そう思った聖志は,一旦コンピュータールーム(PCルーム)から[i]LANを使って中央サーバーにアクセスすることにした。

一応鞄にパソコンを入れ,校舎へと戻った。と,後ろから声をかけられた。

「あれ西原,今日は遅いな」

テニス部所属の飛島謙太郎だった。

「ああ,ずっと寝ててな」

「全く,よくやるよな」

聖志の嘘に,彼は呆れ顔。

「そういえば,学校って何時に正門が閉まるんだ?」

「えーっと…8時ぐらいじゃないのか?」

「ホントか?」

「んー,はっきり知らん。けどな,正門から出なくても,体育館裏から出られるところがあるのさ」

謙太郎はちょっと得意げに言う。

「体育館裏?」

「ああ。駐車場のとこ」

───そういえばあったな。

それを聞いて相づちをうつ。

「あったあった」

「俺なんて,部活の朝練に遅れそうになったらいつも使ってる」

「ほほう」

「って,なんでそんなこと聞く?」

「いや,もう少し遅くまで寝てたらどっから出ようかって思って」

聖志は馬鹿面を作る。

「お前なぁ。家近いんだし,とっとと帰って寝ろ」

「言われなくてもそうするさ。んじゃな」

そう言って踵を返すと,

「待て,俺も帰る」

───しまった…。

予定が狂った。彼がいては,作業がしにくい。

───ま,急ぐことはないか。

「OK,出口で待ってる」

「ああ,すぐ行く」

というわけで,その日は終わった。

 



[i] Local Area Network

コンピューターのネットワーク形式で,比較的狭い建物内に構築されたネットワーク回線。


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