記憶-想い-
あれから3ヶ月。私は確信犯的に希望の家に転がり込んだ。当然前のマンションは引き払った後で。
「散らかってるよ?」
三鷹の駅に少し近いマンションに住んでいる希望は,土曜日の夜にもかかわらずちょっと準備していたらしかった。小さな身体をぴょこっとドアから出して彼女はそう言ってた。
「ごめんね,勝手なことしちゃって」
「今更謝らないの,あたしに再会したときからそのつもりだった癖にぃ」
彼女は肘で脇腹をつついてくるけど,その顔は少し嬉しそうに見えた。その顔が可愛くて私は思わず彼女を抱き締めていた。
「やん,もう…急に何よぉ」
私も同じ気持ち。私のことを全部分かってくれる親友がいて私がしたいことを分かってくれる…言葉がないままに。
「もう,甘えんぼ」
「ダメかな?」
胸の中で小さく抗議する彼女に尋ねる。
「わかってるでしょ,明美?」
「…うん!」
最初こそ少し遠慮があったものの1週間近くでそれも薄れた。女同士なので気が楽でしょうがない。遠慮どころかもはや図々しい域に達している。
いつもと違う駅から職場に向かい始め,ようやく慣れたある日,
「明美,彼から手紙来てるよ」
「もう,彼じゃないってば」
希望は間違いなくからかうつもりでその手紙を,リビングでくつろぐ私のもとへ持ってきた。ニヤニヤしながら。
「いいよねー明美は」
「友達だよ」
そう…彼氏じゃない。友人。
どうしてだろう。彼氏と友達とどんな違いがあるんだろう…何だか寂しく思えるのは人間の性なのだろうか。思いの丈を言い合えたり,感情をぶつけ合ったり,一緒に遊びに行ったり,キスやセックスもした。その全てが私も彼も自然な流れで嫌な感情はなかった。でも,私も彼も恋人同士ではないことを確認してる。でも他に遊び相手がいる訳じゃないし,確実に両想いだっていうことは分かってる。
「何で付き合わないの?」
会社の同僚からは何回かそういう言葉を受けたこともある。私と彼が休憩室でだべったり小突き合ったりしているのは同僚ならよく知っているからだ。
―――そんな義務はない。
東城君がその場で答えた言葉。一見冷たく突き放された感じはするが,私もその時同感していた。
どうしてなんだろう…自分の心が分からない。東城君とならある程度距離を保っていればずっと一緒にいられると思っていた。事実半年の間どちらからも付き合おうとは言い出さなかった。お互いにその距離と存在が大切だったのかも知れない…恋人という既製品より,一言で表すことのできない存在。
でも私はあの日…一線を越えた。
あの日以前の方が不安だったことは確か。あの日以来,心が「休める」ようになった。一日中彼に肩を預けたこともあった。それまでにないはずなのに懐かしいような安心感。
お互いが恋人という関係を怖がっていたのかも知れない。捨てられて間もない私と,掛け替えのないものを失った彼。お互いが自分にとって最大の拠り所となって,それを失う可能性が少しでもあるということが耐えられなかった。
「水が好きだ。だから嫌いだ」
彼が言った矛盾した言葉。好きなはずなのに嫌ってしまう…私なりの解釈だけど分かる気がする。好きだからこそ失うのが恐い。それなら遠くから見ているだけでいい,失う辛さを味わうよりはもどかしさの方がいくらかは…。考えが後ろ向きなのかも知れないけど,今の私にはそれが精一杯の言い訳。
一線を越えても私たちは恋人じゃなかった。ならずにすんだ。普通の友人,でもお互いを想っている友人。考えてみると都合のいい関係…ともすれば身体だけの関係になりかねないけど,彼は他の人間と違うみたい。
今は職場も少し離れてるけど,月に何度かはお互い自然に会っている。
「俺は卑怯かも知れない。でもこんな生き方しか今はできない」
何度目かに会ったとき,自分の弱さに拳を握ってた彼。きっと絶対そんな自分は許せないんだろう…でも人間は元来弱いもの。私にもその気持ちは十分すぎるほどわかる。
彼にも優希ちゃんがいた。自分が唯一安心を得る空間。私は希望と暮らすようになって安心を得た。でも彼はそれが叶わない…何故なら,幻影の原型がこの世に存在しないから。
私は今でも彼が好き。彼を助けてあげるだなんて自惚れたことは言わないけど,ほんの少しでも彼の支えになれればいい…傲慢なのかな。
「大丈夫だよ。明美がいる限り,彼は大丈夫」
その言葉に私は現実に引き戻された。
「え…」
目の前に座った希望が,私の頬に手を当てていた。伝う冷たい感触は彼女の手の平じゃなかった。
「もし彼が倒れそうになったら支えてあげて。それは明美にしかできないよ?」
「私が,できると思う?」
「あたしじゃ無理。心が通じた明美じゃないと…彼は心を休められない」
「…恋人じゃないのに?」
「だからだよ。彼の優希は優希子じゃなくなってきてる…明美になってきてる。彼がそう変化させてる。だって優希子はもういないんだ…彼は現実を見ようと努力してる。あたしが見てても辛いぐらいに,必死に努力してる。それを助けてあげて」
頭を振りながら訴える希望が,何故彼のことを知っているのか分からなかった。でも今はそんなことはどうでもよかった。ただ彼女が目の前で,私と同じように涙を溜めて…
「彼,もう限界なの。もう見てられない…から。お願い…明美」
「希望…」
「もう,見たくないよ…心が…」
「希望!」
倒れ込んできた彼女…そのまま,私の心の中に流れ込んできた。
空の青と草の緑,雲の白…それ以外の色がなかった。
そこは草原だった。広く広くどこまでも続く…草原。地平線が360度全ての方向に敷き詰められている。まるでその草原だけが地面から離れ,宙に浮いていてもおかしくない…そんな感覚さえ覚える。
澄んだ空気,優しいそよ風,柔らかい太陽の光…大自然の中に彼はいた。
彼は普段この場所にいる。澄んだ空気,優しいそよ風,柔らかい太陽の光…全ての自然の条件が揃った場所。そこに生きている。
夜になると空はダークブルーに染まり,天から光の粒が散りばめられる。網膜に突き刺さる月の蒼い光,聴覚が感じられない静寂…地平線がはっきりと地面と空を分ける。
そして太陽が昇ると再び…澄んだ空気,優しいそよ風,柔らかい太陽の光…その三者が完璧なまでの三重奏を奏でる。
…………だが
彼は,独りだ。
ただ自然の中に放り出された,一人のちっぽけな人間という存在。
私の目に映るのは,ただただ広い草原の中に立つ,彼の後ろ姿だけ。白いシャツをなびかせて微動だにしない…彼は生きているのだろうか…それとも。
「彼は,こんなにも素晴らしい世界にいるんだよ」
希望の言う“世界”は彼の深層心理。澄んだ空気,優しいそよ風,柔らかい太陽の光…必要なもの以外は何もない,完璧な世界。だが肝心の生物がいない。彼はいくつ夜を越えても一人のまま。どれだけ素晴らしい世界にいても一人のまま。
「…こんな世界,堪えられない」
「当たり前だよ。明美は人間なんだから」
「…彼は,違うの?」
「彼も人間だよ」
人間などこの自然では一番弱い存在。故に知恵を手に入れた。そのはずなのだ。
「あ…あれは?」
目を凝らすと,彼の目の前に優希ちゃんがいた。でもその姿は透き通っていて実体をとどめているのか疑わしい。
「彼の中の優希子だよ」
その子は…私の中の優希,つまり希望に瓜二つだった。
そして隣には…
「あれが明美だよ」
そこにいた私は隣の優希子より現実味があった。彼はその私の手を握ろうとするが,触れるかどうかと言うところで彼は再び手を引っ込めてしまう。何度かまた同じ動作をしているが,どうしても手を握る動作ができない…いや,躊躇っている。
「…もし明美が,彼と同じように向かい合っていたら…手を取れる?」
彼…好きな相手。私なら取れるかも知れない。
よくあの休憩室で意味のない会話もした…一緒に笑いあった…よく遊びに行った…体を交わしたりもした…彼としていないことなどないかも知れない。
でも,彼はどうして躊躇うんだろう…私と同じ経験をしているはずなのに。
「明美はどうして付き合わないの?」
その言葉を聞いた瞬間,気がついた。
―――…怖いんだ。彼も。
その手を握ればこの素晴らしい世界に二人きりになれるのに…彼の心が怯えている。そして,私も同様,彼を信じて握り返すことを恐れている。
別れの瞬間が恐い。二人の人生の線が離れてしまう瞬間が。でも彼は…この世界で孤独なことに堪えられないでいる…
「私が…彼を」
「好き,なんでしょ?」
「…うん。大好き」
その私は,目の前の彼が差し出した手を…咄嗟に握り返した。
不安なら,一緒に行こう? 私がいるから。
いいのか? 俺は不器用だぞ。
嫌というほど知ってるから大丈夫。
ありがとう。
私の方こそ。
ふと見るとそこにいたはずの優希子は姿を消し,大自然の中で彼と二人だった。
――― また一発殴らせろよ。お前のデコピンはヒリヒリするんだからな。
切手の貼ってある真っ白なキャンバスには,あの休憩室でよく見せて貰ったノートの文字が踊っていた。
「希望,ありがとう」
寝息を立てて私の膝に寄りかかった希望の頭をそっと撫でた。
―――私と彼の希望は叶ったよ,希望。
あの一夜は私にとって過ぎ去った過去なのか,思いの出る思い出なのか…
それを決めるのは,読者に委ねたい。