記憶 -記憶-
俺が生まれたのは小さな田舎だった。
今住んでいる所とは地獄と天国と言って問題ない。澄み切った空気,清流,蒼空,近所の人々の人情,暖かい家族…俺が望んでやまないもの全てがあった。
その日俺は,いつものようにいつもの川に駆け足できていた。親に見つかると必ず怒られていた…理由は簡単,川下りのまねごとをしていたからだ。
「そんなことしてたらいつか戻って来られなくなるよ!」
母親の言葉は今でもトーンまで思い出せる。
結果的に逆になったのだが,ある意味その言葉は的を射ていたのかもしれない…その天国が,地獄に一変したのだから。
実家の近くの川は上流へ行くとかなりの急流になっており,毎年夏になるとそこで村の人々も川下りを楽しんでいた。初めて父親に連れて行ってもらい一緒にゴムボートに乗ったのが始まりだった。
衝撃的な発見だった。凄まじい急流,冷たい飛沫,迫り来る岩石,風を切るスピード,躍り始める心。体いっぱいに受けるその全ての感覚が俺にとって未知の感覚。初めての爽快感…というのだろうか。
蒼空から照りつける太陽の下,ひんやり冷たい清流の飛沫を浴びながら近所の人たちと同じボートでわいわいはしゃいで疲れ切る。
父親もかなり好きだったらしく,俺に言った台詞と同じことを母親に何回も言われていたのを覚えている。
「全く,無茶も言いつけ守らないのも父親譲りね」
夕食時にそんなことを言われても俺は平気だった。それどころか,あんな楽しみがあることを母親が知らないことをかわいそうに思ったくらいだ。
それからというもの,俺は弟と一緒に数え切れないくらいそこに通った。近所でも有名で,必ずおばさんたちが
「気をつけるんだよ」
「ちゃんと勉強しなさいよ」
など,殆ど自分の母親と同じことを言ってくれていた。
対照的に妹はそんな俺達を見て少し羨ましそうにしながらも母親の言うことをちゃんと聞いていた。だが俺は一度だけ無理に誘ったことがある。
最初は俺と同じく怖がっていたものの,同じ血が通っていたらしい。弟ほどではないが気に入ったらしく誘えば必ず3人一緒になってその清流で遊んだものだ。
「お兄ちゃん,今日は行かないの?」
いつもは表情をあまり出さないが,この台詞を言うときだけは目をきらきらさせてわくわく感を小さな体で精一杯表現していた。
少しばかり年が離れていたせいか妹はかわいがっていた。そのせいもあったのか,兄貴という立場もあったのか
「今日はお勉強だろ? 明日連れて行ってやる」
「うん!」
俺はその日,優希子にそう言ったのは多分年上としての,ちっぽけだがまともな義務感からかも知れない。
―――俺には妹が住み着いている…いや,俺が妹に依存していたのか。
夏が過ぎ,秋も色を深めていたある日,俺と弟は夏休みの様相でいつものように川へ行った。河原に降り立つと…
「あ…」
その日見た光景は,一生頭から離れることはないだろう。
いつもの清流とその川を挟む山のコントラスト。
赤と黄色の山,青い空,緑,銀,白と変化する清流。自然が構成できる全ての色を使ったような…まるで絵画。不思議な感覚だった…絵画は人間が自然に似せるのに,その景色は自然の定義を超越して見えた。
「優希…呼んできて」
俺はその光景を見つめたまま弟にそう頼んだ。…あいつに見せてやりたかった。毎年見ていたはずだが,俺が心からそう願ったあの景色。
「見せてやりたかったのさ…本当に。紅葉と清流があればどこでもよかった」
―――幸せと不幸は紙一重なのかもしれない。
こんなことってあるか。
あの景色があったばかりに俺は弟まで死なせてしまった。
その景色を見ながらボートに乗った…そして俺は一人だけ助かった。
急に川の水位が上がり,堤防もないその川辺は何の抵抗もなく大量の水を受け入れていた。
気がつくと3日経っていた。川の下流にある町の小さな病院。そこに唯一ある空き部屋のベッドで目を覚ました。周りには…看護婦以外誰もいなかった。
失わざるべきものを失った瞬間だった。
―――奇跡的に一命を取り留めた。
災害の取材に来た記者に対してその病院の医師が言った言葉。
そのときの俺は放心状態で,その時の記憶はデジタルディスクに保存された数字の羅列のように正確にしかし全く無機質に出てくる。
「びっくりしたよね,どんな様子だった?」
若い女性記者がいかにも同情しています,という顔で俺に尋ねてきていた。その時は全く何も感じていなかった…ただ答えるのは面倒だ,と思ったことは覚えている。
後で知ったことだがその清流は水源からの分岐で上流にはダムがあり,操作ミスによって開門してしまっていた。村はほぼ全滅…父親,母親はもとより,川ではしゃぎあった友達,母と同じことを言ってくれた近所のおばさんたち,そして…あの光景とそれを一番見せたかったはずの妹。安っぽい言葉だが,全てが文字通り水に流されていた。
新聞でも第一面に載っていた…そんなことは今も昔も全く興味のないことなのだ。
「何故俺だけが生き残ったんだ。俺の大事なものは全てなくなったのに,何故俺だけ一人残したんだ。神は俺に恨みでもあるのか」
俺は水が好きだ。だから嫌いなんだ。
水は…あのワクワクした思い出,楽しい思い出,掛け替えのない思い出がある。同時にあの忌々しい忘れたくても忘れられない,忘れることができない過去,忘れてはいけない記憶がある。
他人が俺の言葉を聞いたら矛盾と取るだろう。
だが俺にとってこの矛盾極まりない言葉は,俺をそのまま表した言葉だった。
「他の奴にこんなこと言えないさ」
「…」
「自分の中に生きている優希子…妹のためにここに来て,あの景色を再び見せてやりたかった…同僚なら一笑に付すか,バカにするに決まっているじゃないか」
「…」
「お前は聞いてくれると思ったのさ。例えどう思おうとも,聞くだけでもな」
「…」
「…何故なんだ?」
「知りたい。東城君のこと」
「同情か?」
「それは…うん。でもそれだけじゃない。知りたいの」
「何故?」
しばらくの間,二人の視線が交錯した。
川のせせらぎ,風の息吹,森のざわめき…山全体が俺達を見守るように感じる。
「…私も,その子がいたの。優希ちゃんがいたの」
「からかうのは…」
彼はそう言いかけたが,彼女は彼の,それこそ妄想じみた話をまともに聞いてくれていた。最低限の礼儀は払うべきだろうと思いその言葉を飲み込んだ。
「続けてくれ」
「私の優希ちゃんは…妹じゃなく親友だったの。それに…」
「魔法が使えるんだろ?」
ごく自然に,なくしたはずのピースが当てはまった。一部分がないと全てに違和感がある…そのピースがあるだけでこの世に存在しないはずの不自然なものも自然に感じられた。
「優希ちゃんは…」
「彼女自身だ」
思い出,記憶,過去…言い方が違うと意味も変わる。だが過去を記憶に,記憶を思い出に変えることが叶ったのは紛れもなく優希の存在のおかげ。
「俺は優希に…」
「助けられた。そして」
「感謝してる。そうだろ?」
「うん。それに…」
「俺にも,か?」
少し伏し目がちに彼女は頷き,俺は軽く抱き寄せた。
言葉はときにその想いを陳腐にする。言葉など必要ない,目と心で意思が通じ合えるならそれ以上の理想はないだろう。
彼女のおかげで俺はその理想を目の当たりにしたようだった。