記憶 -紅葉-
俺がとりあえず電話を入れた旅館は,一体どこから入っていくのか分からなかったほど細い道の先にぽつりと存在していた。
―――これじゃ断られるのも分かる。
最初は車で行きたい,と言ったのだが駐車場はおろか車が通れる道がない,と女将さんにやんわりとしかしきっぱりと断られた。
見た印象としては人を泊めるための施設ではなく,この辺りに迷い込んでしまって宿がない人に対する休養施設のような小さなところだ。外観は古めかしい日本家屋を多少改築して部屋数を増やした感じ。茶色の壁とその背景の深い森林が,暗いイメージではなく不思議に懐古の情を抱かせる。旅館の前には自転車が数台止められるようなちょっとした広場。その奥にある玄関の横には看板らしく“郷愁堂”と太く漢字が刻まれている。
ちりんちりん
玄関の引き戸を開けると,頭の上で鈴が鳴る。
…待つことしばし。
「お帰りなさいませ」
てっきり普段着の女性が出てくると思いきや,女将さんと思われる女性がきちんとした和服姿で現れた。
「東城様ですね,ご案内します」
そう言って彼女は手を差し出し,俺のちっこい鞄を運んでくれようとするが,
「これだけだからいいよ」
俺が遠慮すると少し微笑み,先導して2階へ連れて行った。
―――まるで田舎の学校の寮だな。
最初の印象はそれだ。しかし年季が入った内装ながらも手入れは行き届いているようだった。つやを放つ廊下,瑞々しい花瓶の花,淀みない空気。旅館としては欠損ない。
「こちらになります」
その廊下の一番端の部屋に案内される。
「ありがとう」
「夕食は6時30分ですがよろしいでしょうか?」
「うん。お願い」
「承知しました。では,ごゆっくり」
そう言い残して女将さんは出て行った。
華美な装飾のない和室。清潔さが伴って涼しい空気が漂っている。
部屋のベランダに出ると,正面には緑の山々,眼下には道を挟んで向こう側に清流が流れている。
―――本当に田舎だな。
自ら望んでここに来たのに何故か呆れている自分が垣間見え,俺は慌ててその考えを振り払った。
俺はその小さな鞄を置くとその辺を歩こうと外に出た。
普通チェックインってのは午後をすぎてからなのにここは全然関係ないらしい…まだ10時になっていない。
旅館の前を掃除する従業員に笑顔で送られ,舗装されたその細い道を俺は何を思ったか,来た方向とは逆へ歩いていた。暑くもなく,涼しすぎることもない爽やかな風を受けながら,左手の清流沿いに散策する。
―――少し下りてみたいな…。
道から見える清流は,俺がかつてまるで見たことのない透明度だった。水中にどんな生物がいるかが水族館のケースの如く透き通って見える。そこから目を移し,ずっと川上の方を見ると,結構遠いところに道から下りる階段が見えた。俺は何の理由もなく,ただ吸い寄せられるように歩みを進めた。
5分は歩いた。さっきより更に細くなった道に,下に下りる石段があった。段差が大きい石段を慎重に下りると綺麗な川原。シーズンなら絶対釣り人がいるであろうポイントだ。
俺は別段何をするわけでもなく川の畔に立つ。川の流れを見ていると何故か切なくなる。せせらぎを聞いても同じだ。川に対して特に辛い想い出もないはずなのに,何故なんだろう。都会で育った人間が忘れ去った自然の置きみやげか…。
しゃがみ込んでその清流に手を浸ける。氷のように冷たい水が指の間を通り過ぎる。
掴みたくても掴めないもの。すぐそこにあるのに解らないもの。普段見もしないのにいざなくなると何よりも真っ先にそれを欲しがる。ある時は邪魔に思え,ある時はその神秘に魅せられる。少なくとも俺の器量でははかりきれないもの。
―――俺はこいつに何を求めているのだろう…。
美しさや安らぎではない,絶対的な何か。俺はそれを確かめにここへ来たのではないか?
「そんなところで何してるの〜!」
如何に年月が経とうとも,色褪せようともその絶対的要素は恒久に保たれる。
「無視しないでよー!」
―――はぁ。
俺は立ち上がる。
「いつからそこにいたんだ?」
上の道から見下ろす形で明美が立っていた。
気が付くと私は彼の後を追っていた。
「道案内しろって言ったじゃない」
「めんどくさがったのお前だろ?全く…俺は都会人なんだぞ?」
彼はブツクサと文句を言っているけど,会社でも同じような感じだ。何か不満ごとがあるとことあるごとに休憩室に来て,決まって私の斜め前に座り突然話し出す。
―――黙ってたら結構格好いいのにな…。
「何考えてるんだ,失礼な奴だな」
「何でもないよ…上がって来なよ,案内してあげるから」
私が本音を思い浮かべるとすぐに指摘してくる…なんか見抜かれてるな…。
「しょうがないな,付いてってやるよ」
彼は少し笑顔を浮かべると石段を上がってきた。
「で,どこへ連れてってくれるんだ?」
「どこへ行きたい?」
「…上流へ行こうぜ」
「え,うん。いいよ」
―――てっきり怒られると思った。
この辺りを知らないのにどこへ行きたい,だなんてそんな質問はない。でも彼は川の上流へ行きたいと言った。
彼と並んで歩く。別に彼氏でもないのに…なんて,彼の方はそんなことは微塵も感じてないだろう。
「どうしてここへ来たの?」
左の彼に尋ねる。…少し間があいた後,
「…何故だろうな」
私に言った訳じゃない。自分に問いかけてる感じがする。その証拠に彼の眼差しは私の姿を捕らえず,夜見川の源流を見ていた。
「お前はここ好きなのか?」
「うん」
私が返答しても彼は何も言わなかった。
「東城君は…」
「俺も,ここは好きな気がするな。田舎が…ちょうどこんな感じだった」
…そう言えば,彼の田舎は聞いたことがない。
「俺は水が好きなんだ」
彼がぽつりとつぶやく。
「だから嫌いだ」
と,全く逆のことをまたつぶやいた。
「わからないよ」
「あ…ま,そうだな」
私が不満げに声を上げると,彼は私がいることを忘れていたかのように取り繕った。でも私が本当に不満だったのは…彼の心情が全くわからないということ。彼は時々本当に矛盾したことを言っては憂いの顔を浮かべ,その傍らに私がいても全く気付いていないことが多い。
源流に近付く。ここから先は道がない…人が近付く必要がないところ。その透明の水は山の地下水が流れ出ている,夜見川の源流。私も小さい頃数度ここに来たことがあるけど…それ以上でも以下でもない。何とも思わない。
彼はそんな水の流れを見つめている。私には見えない何かを見つめている。
「カヌーとかしないのか?」
「え?」
突拍子もない言葉に少し拍子抜けしながら,
「ないよ。恐いし…したことあるの?」
「ああ…カヌーじゃないけどな。子供が乗るゴムボートで上流から一気に下流まで下るのさ。あれは楽しかった」
「そんなの危ないよ」
私がそう言うとため息をつき,
「みーんなそう言った。いやというほど言われた。けど俺はそれがやめられなかった。何故かわかるか?」
「…」
「大人が言った言葉が本当かどうか,この目と体で確かめたかった。根拠のない危険を並び立てそれを理由にやめろって」
「根拠は上流の速い流れじゃないの?」
「ま…そうかもな」
と,私の意見に彼は冷めた表情で呟いた。顔は冷めていたけど…その目はその頃の視線なのか…純粋な少年が持っているような,塗り固めた嘘を貫く視線に見えた。
「さて,お前の家に行こうか」
「…は?」
「挨拶しとかないとな,ご両親に」
「え?えっ!?」
いきなりの言葉に狼狽える私を面白がるように見ながら,
「同僚の東城と言います,いつも娘さんが僕に愚痴ばかり言うのでたまにはこっちから言いに来てやりました」
「もう,からかいすぎだってば」
こういう冗談は彼の専売特許だ。たまに職場でも似たようなことを言って私で遊ぶ。
「ホントのところ,どこなんだよ?」
「え…ホントに来るの?」
「近くまで行くくらいいいだろ?」
―――まあ,それなら…。
「わかった。こっち」
そうは言ったが内心どきどきだった。もし両親に見られたらなんて紹介していいのかわからない…同僚の東城君って言うのが一番無難かな。でも何でこんなところに来てるのか…わざわざ親に紹介するなんて結婚の予定あるみたいじゃない…まして近所の人も知ってるのに。
「おい,聞いてるのか?」
「あ,え?」
こんなのってドラマだけかと思ったら…実際にあるんだ。
「お前な。バカか」
「な…バカはないじゃないの!」
少し妄想に浸っていると,ここぞとばかりに彼が突っ込んできた。やっぱり顔に出るのかな…それとも…。
「フィクションに浸るのはバカじゃないのか?」
「もう…そういうものでしょ,人間っていうのは」
全く,現実主義者なんだから…。
「だから彼氏ができないんだよ」
「うっ…そうなのかな…」
「冗談だ」
少し本当に凹んだ私を見てか,そっぽ向きながら彼はそう言い放った。
その後は2人とも黙ったまま歩みを進めた。
今朝希望を見送った道まで来る。この道はこの村唯一の交通路。ここで私たちは偶然の再会を果たし,私が望んだ人もここに来た。
「明美,ここは紅葉ないのか?」
「あるよ。でもまだ季節が早いしね」
最近は秋にこっちに来ることは無理だ。だからここの紅葉はどんなものか見ていない。でも小さい頃に脳裏に焼き付いた紅葉は…連なる山々が燃えるような赤に染まり,いつも見慣れた景色のはずなのに不思議な気分になった事を覚えている。
「見てみたいな」
その道路の先にある山々を見ながら彼が呟いた。
「そうだね」
どうして彼がそう言ったのはわからないが,私も同じ気持ちだった。
アスファルトの道からあぜ道に入る。
「どこへ行くんだよ。俺は田植えに来たんじゃないぞ」
「私の家でしょ?こっちなの」
「…ホントだろうな」
急に彼が訝しげに私を見た。
「あのね,私だって本当ならまともな道歩きたいんだからね」
「わかった。悪かったな」
そう。彼は非があるとわかるとすぐに謝ってくれる。でも本当に非があると思わない限り謝らない人。
私にとってはいつもの,彼にとっては初めての歩きにくい道をゆっくりと歩く。こんなへっぴり腰に近い彼を見るのも初めてだ。
「しょうがないだろ,都会人なんだから」
私が少し微笑ましく見ているとふて腐れたように彼がそう言った。
ようやくその道を抜けると森の木々に囲まれた細い道に来る。
「…下は,さっきの川か?」
「そうよ」
「降りれないのか?」
「もうちょっと行ったら降りるところあるよ」
私が横に並んでそう言うと,彼は何故かほっとしたように微笑んでいた。
…そう言えば,さっきも川原にいたっけ。
「さっき,川原で何してたの?」
「川原にいたんだ」
「…じゃなくて,どうして川原にいたの?」
「気のせいだろ?」
―――…。
私はその会話が何を意味しているのかわからなかった。
でも私はもう一度問い質すことができなかった。彼の目が私でない,何かを見ていることがわかったから。
「いいロケーションだな」
「そうでしょ」
彼女は少し自慢げに笑顔で言った。自分の故郷が褒められるというのもやはり嬉しいということの対象に入るみたいだ。
上の道からはかなり落差があり,対岸はまた切り立った崖。下流を見ると山に彫刻刀で彫りつけたように見事なV字谷になっている。今は青々とした木々が川の両側をアーチ状に覆っている。
「紅葉は…いつ見られるんだ?」
「まだまだだよ」
―――紅葉になったら…。
また来てみよう,と思ったが恐らくその頃は仕事の繁忙期でそれどころじゃないだろう。それに紅葉の時期は年々短くなってきている…。
「寂しいよな」
俺は思わずそんな言葉を吐いていた。隣の明美は俺のことを不思議そうに見上げているが,こいつに何と思われようと別に何ともない。ただ少し寂しくなるだけだ。
「私は心が温かくなるよ?」
川の畔にしゃがみ込んだ俺に,彼女が後ろから話し掛けてきた。
「この谷が生きている気がして嬉しい。春には春の,秋には秋の表情が鮮やかに見える。何より,綺麗だから」
普通はそうなのだろう。そうでなければ俺だってこんな気持ちにはならない。だが…。
「何か思い入れあるの?」
「え?」
「さっきから気にしてるから…」
「阪口が気にするようなことじゃないさ」
そう。こいつには何の関係もない,ただ俺のくだらない過去のことだ。
美しい清流と燃えるような紅葉。俺の記憶の隅にあっていつでも引き出せてしまう…焼きたい写真。
「ずるいよね,東城君って」
と,思いもしない言葉が掛けられ,思わず振り向こうと…。
「…」
時が止まる。
「私のことは何でも知ってる癖に…自分のこと話してくれない」
「卑怯なのはお前だろ…やめてくれ」
「…いや」
再び生暖かい感触が唇に感じられる。
早い鼓動,息遣い,暖かい体温…彼女の気持ち。人間が持つ,一番ストレートな感情の表現方法。そして一番難解な感情の始まり。
俺は一人で生きていく。生きていかなければならないはずだ。
…もう,失うものなど持ちたくない。