記憶 --

 

東から朝日が昇る。

日の出というものをこれほど感じれるのは,田舎ならではだと思う。

未だ深い緑の山々に薄い朝靄が立ちこめている時刻,私は母さんに頼まれた洗濯物を干している。

呼吸するたび少しひんやりした空気が気管を通る。空気がおいしいというのはこのことだと実感できることに少し感動したり,当然ながら透き通っていて冷たい水にも少し驚いたり。都会の生活では分からなかったことが,記憶の片隅からよみがえってくる。

「こっちの朝は気持ちいいだ?」

隣に立った母さんが汗を拭いながらそう言った。

「…うん」

早起きしてよかったと思った…向こうじゃ味わえない爽やかさがある。

その後,母さんと朝食を作った。まともな食事を作るのも半年ぶりくらい。

「向こうでどうせまともなもの食ってないでしょ」

何気ない会話をしながら,それでも母さんは手際よくお米をとぎ,味噌汁の用意をする。私はキャベツとキュウリ,シーチキンをマヨネーズで和え,新鮮なトマトを添えたサラダを作った。一応料理はできるのだが向こうにいると疲れの方が勝ってどうしても朝食抜きコンビニ夜食が多い。

白米の湯気と味噌の芳ばしい香りが台所に立ちこめると,図ったように父さんが外から朝刊を持って戻ってくる。

「いただきます」

いつ頃ぶりかの家族揃っての朝食。

やっぱり家族がいるとほっとする。一人でがやがやと喋る母さん。それを黙って聞いているのかどうか分からない父さんが,朝刊を開こうとすると母さんに叱られる。小さい頃はいつもこれが普通だった。この食卓がずっと続くと思っていたあの頃…永遠などないと物心付いた頃から思ってはいたものの,実際に経験すると…切なくなる。

しかし一番驚いたのは,朝からこんなに自分が食べられたこと。

―――…おいしい。

口には出さなかったけれど,正直な感想だった。

 

食後の運動を兼ねて外へ散歩に出ることにした。

未だ少しひんやりした空気を足下に感じながら,いつもの道を下って滝への岐路まで来る。

「明美!」

「希望…早いね」

その小さな体に,同じぐらいの大きさの鞄をしょっている。

「うん。ちょっとやってしまいたいことを思い出して」

「そっか。バス停まで一緒に行こ?」

「うん!」

来るときは一人で,ハイヒールで悪戦苦闘しながら上ってきた道だったけど,隣の彼女がぴょんぴょんと跳ね回る勢いで私にまとわりついてくる…その光景がすごく嬉しかった。

普段なら10分近く掛かる道のりだけど,楽しい時間は早く過ぎる,とはよく言ったもの。

未だ足下はひんやりした空気が流れている。しかし少し昇った太陽は少しずつ空気を暖めていっている。

「まだ時間あるね」

「うん」

アスファルトの道路に設置された,雨宿りするのがやっとの小さなバス停の小屋。錆び付いた,何の宣伝か分からない看板が,同じく錆びた釘で辛うじて吊されている。

そこに据えられたベンチに大きな鞄を肩から降ろして,彼女は背伸びをする。

「やっぱりあたしここが好きだよ。空気が淀んでないっていうのもあるけど…落ち着く」

「そうだね」

この村からも若い人は殆ど都会へ出て行ってしまっているが,帰ってくると今の彼女と同じような言葉をこぼす,と母さんが言っていた。

「明美はいつ戻るの?」

「多分来週には戻ってるよ。家を放っておく訳にもいかないし」

「そっか。わかった」

と,程なくしてバスが近付いてきた。色褪せた古めかしいバスだが,これがないと都会へ行くことすら困難だ。

彼女は再び自分と同じほどの大きさの鞄を背負い,バスに乗る。

「それじゃ,先に行くよ?」

「うん。必ず連絡するから会おうね」

私がそう言うと,彼女は少しよろめきながらも手を差し出してきた。私はその手を握り替えし,

「絶対ね」

バスのドアが軋んで閉まる。窓の向こうで彼女が勢いよく笑顔で頷いた。その笑顔は…私が創造した優希ちゃんと同じだった。

ガスの匂いを残し,バスは去った。

………。

……。

…。

「どうしてここにいるのさ?」

一瞬幻覚かと思ったほど,自然に風景に馴染んでいた。

「どうしてって…どうして?」

彼が当然の如く,軽めのショルダーバッグを掛けてそこに佇んでいた。

私より少し高い目線,凛とした顔に似合うシャープな縁の細い眼鏡…というのは言い過ぎかな。いつもの眼鏡と言った方がしっくり来る。

彼が…東城君。

「何してるんだよ。こんなド田舎で」

「東城君こそ,こんなド田舎まで何しに来たの?」

「旅行だよ」

何言ってるのさ,と言いたげな顔がなんだか可笑しかった。何故こんな辺鄙なところへ来たのか…。

「阪口は何してるのさ。妙に普段着みたいだけど?」

「…私の実家,この近くなの」

「ほんとか?」

「うん。来る?」

「休みの日まで同僚の顔は見たくない」

素っ気なく…どころか,突っ慳貪にそう言った。内心ドキドキしながら言ったんだけど…。

「でもこんなところにホテルなんてないよ?」

「別にホテルじゃなくても泊まれるだろ。ただ,宿がないところに寝るのも味がないからな」

彼はそう言って不敵な笑み…基,いつものニヒルな笑みを浮かべた。

―――気味悪いよ。

「はぁ…相変わらず失礼な奴だ」

多分いつもの顔になっていたんだろう…彼は溜息混じりにぼやいた。

「とりあえず俺は宿に行くけど,この辺詳しいんだよな?」

「うん」

「分かるよな? 案内してくれ」

「え〜…」

当然のようにそう言ってくれるのが少し嬉しくて,ちょっと意地悪したくなる。

「冷たい奴だな,それでも友達か」

同僚の顔は見たくないと言ってた癖に…。

「どうしようかな…」

私が彼の反応を見ると,

「じゃ,そういうことで」

「あ,もう,分かったってば」

さっさと立ち去ろうとする彼を,いつものように私は小走りに追いかけていた。