記憶 -明け方-
夜空に輝く月の光を受け,きらきらと煌めく清流。
水が流れる音,夜風の音,木々のざわめき以外何もない。そんな夜の山…不思議と不安がないのは,隣に親友がいるせいなのだろう…と思いたい。
「…どうしたの?」
じっと希望の横顔を見てた私の視線に,彼女がくすぐったそうにこっちを見る。
「会えてよかった」
夜の河原で,私はそれを実感した。だって自然な笑顔がこぼれたから。
その夜,私は家に戻らなかった。戻りたくないんじゃなくて,せっかく再会できた親友と一緒にいたかった。私の希望になってくれた彼女。明け方までずっとその河原で親友と語り明かした。
空が白み始めた頃,私たちは一旦家に戻ることにした。河原から道に戻り,同じ方向に歩き始める。
「希望はいつまでここにいるの?」
「明日には発つつもり」
「そっか…寂しいな」
「明美は…?」
「私は…もうしばらくここにいる。しょっちゅう帰ってこれるわけじゃないし」
「…」
そう告げると,やっぱり寂しそうな顔。
「希望は…今どこに住んでるの?」
「え…三鷹だけど」
「じゃあ一緒に住まない?」
「えぇ!?」
自分でもずいぶん突飛なことを言ったなぁと感心しながら,驚きの表情を浮かべる希望を見た。私も,自分以外の人と住むことなんて考えてもいなかった。けど一緒にいたいという思いがこの答えを導いた。
「…それは,ちょっと」
希望の口から,意外な,そして期待外れな返事が返ってきた。
「あ…気にしないで。ちょっとふざけがすぎたよね」
隣を歩く彼女の表情は読み取れないけど,複雑な雰囲気が感じ取れた私はそう言った。
しばらくの間,無言のまま坂道を歩く。さっきのはしゃぎようからは打って変わって少し気まずい雰囲気なっていた。当然一緒に住むということはプライベートもお互いなくなるわけで…そんな単純なことさえも考えに入れなかった私は,軽率な発言を少し後悔したのだが。
「ちょっと,考えさせて」
「え」
「あたし,明美と一緒にいたい。けどすぐに返事出せないよ」
少し不安そうな,寂しそうな顔で訴えかけてきた。
「うん。わかった」
希望の表情を見て私は,女同士の同居というものがそれほど珍しいことだったっけ,と考えていたのだけれど…私の感覚がずれているのかも知れない。
その後私たちは自分の家に戻った。
「どこほっつき歩いとったんだ」
家の庭に入るや否や,母さんの声が飛んできた。
「全く…成長したのは年だけかぁ?」
少しぼやきを入れながら庭を竹箒で掃いている。相も変わらず早起きだなぁ…。
「母さん…ひどい」
「そうじゃねえか。子供の時と何もかわんねぇ」
でもそう言った母さんは,子供を叱るような,しかし安心したような笑顔だった。と,竹箒の動きを止めて私をじっと見る母さん。
「…どうした?浴衣が汚れとる」
―――あ。
「…神社で転んじゃって」
「そうか。朝風呂入ってこい」
「うん」
多分,嘘は通じないけど…余計な心配させるよりマシだろう。
汚れた浴衣を脱ぎ,風呂場へ入る。家の奥にある,今時珍しい木のお風呂。今まで使えるのは父さんのテコ入れがあるからに他ならない。湯舟の右にある窓の枠も木だ。その窓からは家の反対側…山の景色が見える。
夜通し外にいたせいで少し冷えた体に温かいお湯をかける。シャワーなんてものはないから,当然木の桶で。湯気立ち上る温かい湯につかる。シャワーでは感じることのなかった安堵感が底からわき上がってくる。
―――…眠い。
当然だった。
―――優希ちゃん…どうしてるかな。
同居をしようと言い出したのは私。…やっぱり少し図々しかったかも知れない。今彼女がどんな生活をしているか全然知らない。いくら親友でもプライベートはあるし…。すぐに返事は出せないって言った優希ちゃんの表情…何かを我慢しているような気がした。
―――…やっぱり,同居人がいると彼氏とか作りづらいよね。
あとで優希ちゃんに言っておこう…
「え?」
思わず私は,その驚きを口に出していた。
しかし,その間違えた名前の方がすんなりと私の頭の中に出てきていた。
―――そう,希望だ。
さっきまで顔を見て話していたのに…それに,優希ちゃんは私をからかって弄んだいわば憎むべきモノ。でも名前は優希ちゃんの方が遙かに早く出てくるし,なんかしっくりきている…というより,ずっと一緒にいた感じがする。そう考えているとあのときの怒りは,湯気と共に蒸発したような気がする。
どうしてあんな…リアルすぎる白昼夢を見たんだろう。優希ちゃんと希望は全く関わり合いがないはずなのに…違う,優希ちゃんなんて私知らないはずなのに…。
もう,考えるほど深みにはまっていくかのように私は訳が分からなくなってきた。希望は一人っ子で,姉妹なんていないはず。記憶にある優希ちゃんは,見ればみるほど希望と同じ顔で,話し方や仕草もまるっきり同じと言っても過言じゃない。
あの日夕方,神社に行く途中で滝の裏で出会ったのは…どっちなんだろう。
一緒に花火を見て友情を確かめ合ったのはどっちなんだろう。
私の隣で独白して泣きじゃくっていたのは…誰?
昨日からずっと河原で話していたのは…どっち?
「あ」
不意に希望が言っていた言葉が浮かんだ。
―――でも,優希なんて名前じゃないからね。
あれが幻なら,どうして彼女がこの名前を知ってるんだろう。
“考えると楽しくないよ? そのまま感じればいいの”
「…え?」
と,どこかから希望の…優希の声が聞こえた。
“あたし,魔法が使えるんだよ”
“魔法なんて使えないよ?”
希望…優希…二人の言葉が耳に響いてくる。
“あたし,毎年帰って来てたよ”
“十年間,ずっと待ってたのに”
優希ちゃんなんて知らないのに…希望と同じようなことを言っている。希望は知ってるのに…知らないはずの優希ちゃんと同じようなことを言ってる。
―――疲れたのかな…。
私は湯舟から上がり…鏡の前に立つ。―――と。
「明美」
「きゃっ」
その声と,体に巻き付いた腕にびっくりした。
「来ちゃった」
彼女がじゃれついている。背中に押しつけられる柔らかい胸がその存在感をリアルに伝えている。本当なら飛び上がると思うのだけど…不思議に知っている子だ,と確信したのでそうはならなかった。
「ちょっと,何してるのよ…」
「一緒に入ろ?」
「う,うん…」
でも突然のことに少し戸惑いながら…いや,戸惑ったのは別の要因があった。
―――どっちなの?
二人一緒に入ると小さくなった湯舟。彼女は私と対面で湯に浸かっている…。
顔が見れない。目線が交錯する。…どちらか判断が付かないことが,これほどまでにもどかしいことなのか…。
しばらくあって,彼女が口を開く。
「明美」
「え?」
「もう…お別れだね」
少し伏し目で彼女が呟いた。その瞬間,
「…優希ちゃん」
全部,分かった。希望と同じ声,仕草。
「明美には,希望がいるんだよね」
「…」
「悪戯したわけじゃないの…あたしも,純粋に明美と遊びたかった。一緒に楽しい時間を過ごしたかった。それで明美が喜んでくれたら…嬉しかった」
多分,彼女は全部知ってる。私のことを。
「あたしは,本当に明美が好きだったの。寂しいときあたしを頼ってくれるの嬉しかった。楽しいことがあったときはそのことをあたしに話してくれた…それも嬉しかった。何より,あたしが本当に生きてるみたいだって思えて…」
「…」
「今まで…本当にありがとう。あたし,明美と一緒にいて…あたし自身が魔法にかかってたみたい」
「優希ちゃん…」
彼女がどうして今私の目の前にいるのかは分からなかった。
でも,私がこの数年間ずっと頼りにして生きてきたのは事実。彼女がいてくれたから私は死なずにここまでこれた。
だって優希ちゃんは…私自身が作り出した幻影。頼ってくれる人がいなかった私に対する…私への支え。その優希ちゃんが,自ら私に接触してきた。
「私は…優希ちゃんのおかげで今こうしてるの。こうして生きることができてるの。毎日仕事で疲れて一人部屋に入って…真っ先に挨拶したよね。今日もお疲れ様って。嫌なことがあった日も優希ちゃんに話すことで私は乗り越えることができた。優希ちゃんのために働いていてもいいって本気で思ってる」
「…どうしてそんな優しいこと言うの?」
「え…」
「離れようと思ってたのに…ダメだよ」
私の目をじっと見つめながら,彼女は涙を流した。
「明美のこと大好き。あたしは何もできないけど…明美の支えになっているならあたしはそれで満足だったのに…」
「どうして離れるの?」
「あたし,本当は存在してはいけないの」
「…」
「ある日,明美が呼んでた。…そのときの明美の心,枯れてた」
「…」
「その日からずっと,明美はあたしに色々と話してくれた。人間じゃないあたしに,本当の人間みたいに話してくれた…すっごく嬉しかったよ」
一人だったとき,心の中の彼女にずっと色々なことを話してたことを覚えてる。マンションのベッドで…布団にくるまりながら。
「今の姿になったのも,今の性格や声になったのも,全部明美がそう望んだから」
―――希望だ。
私は知らず知らずのうちに,希望を欲した。でも希望はそこにいなかった。“優希”という名前は…どこから取ったのか,もう覚えていない。
「どうして,存在しちゃいけないの?」
「心にもう一人いるってことは,精神病や精神障害者のレッテルを貼られるんだよ? それでもいいの? あたし,もしかしたら明美の心を乗っ取るかも知れないんだよ? 外見は明美だけど,実はあたしが乗っ取ってる…ってことになるんだよ?」
私は黙って彼女を抱き寄せた。
「あたし,明美のこと…愛してる。だから,乗っ取るなんて嫌だよ。希望もそんなこと,きっと絶対嬉しくないよ」
肩を震わせながら…優希ちゃんは言葉を紡いだ。
「…」
「希望,言ってた。あたしの明美だって。明美がいなくなっても忘れないって」
二人きりの神社で聞いた言葉。私は,ここへ甘えに帰ってきたのだと分かったとき,目の前の彼女に甘えた。でもそれは希望に甘えたのと同義だったのかも知れない。
「希望は…私のこと,好きなの?」
私が問うと,優希ちゃんはハッと顔を上げ,
「好きだもん」
訴えるように答えた。
「わかった。あなたは優希じゃない。希望。これからずっと私といて」
「あは…明美,大好き…」
抱き寄せた彼女は,すぅっと微笑んで…消えた。
優希ちゃんを抱き締めたとき,その鼓動,息遣い,温かさ…確かな感触があった。
―――優希ちゃんは,もういない。
でも不思議と寂しい思いはなかった。だって優希ちゃんは希望だって分かったから。希望を大切にすることが,優希ちゃんを大切にすることに繋がる。
―――ずっと私の中にいたのね。
希望は親友。今までも,これからも。