記憶 --

 

夏だけど,涼しい夜風が吹き抜ける。蛙の喧噪はなくなり,山の木々がざわめく。薄い雲の隙間から,月明かりが煌々と照らし出す山の姿。月の光がこんなに眩しいなんて初めて知った。神々しく,冷たく,上品な光。

山の夜は嫌いじゃない…久しぶりに夜に出会えた気がする。

都会にある夜など夜であって夜ではない。人間が生き残るために自らを捨て機械と化す,昼でない時間が夜と呼ばれているだけだ。

思い出したくないモノを振り払うように,私は膝で寝息を立てている彼女の横顔を眺めた。

花火大会の後,もはや神社の境内には私たち二人だけになっていた。少し眠いと言いながら膝の上に頭を乗せて数十分,優希ちゃんは幼い子供のように眠ってしまった。

彼女の柔らかい髪の毛を撫でる。まるで安心しきっているように寝息を立てている。

―――ほんとに信用してくれてるんだな…。

他人の前でこれだけ熟睡できる…というのは羨ましい。無防備な姿を晒せる相手がいるということ。私は…。

「ちゃんと寝てるのか?寝ずに夜な夜な何してるんだか…」

そう言えば,休憩室で東城君の前で熟睡した覚えがある。昼休みを1時間使って結局お昼ご飯が食べられなかった。そのときの彼は,しょうがない奴っていう感じで見てたっけ。

―――彼は間違いなく男性なのに…どうしてあんなにリラックスしてたんだろう。確かに眠かったのもあるけど…他の同僚の前でそんなことはしないし。

「誰のこと考えてるの〜?」

「え」

その声に下を見ると,優希ちゃんがニヤニヤと私の顔を見ていた。

「顔が緩んでるよ」

「べ,つに緩んでないわよ…」

「ふ〜ん」

まだニヤけた顔を残して起きあがる。

「気になる人いるんだ?」

―――そう。気になる。

これが正しい表現かも知れない。特に好きというわけではないし…気になる。

「…いいな」

隣にちょこんと座っている小さな彼女は少し寂しそうに呟いた。

「あたし…そんな人いない。しいて言うなら明美だけだよ」

そう言って彼女は私の左肩に顔を乗せてきた。

「優希ちゃんかわいいから…」

「色んな人に抱かれたよ」

「え…」

彼女が囁いた言葉に驚いた。

「好きじゃない人にいっぱい抱かれた」

「…」

「だって寂しいんだもん。家に帰っても誰もいないって言ったじゃん。ほんとに誰もいないんだよ?それならいっそ誰でもいい…男なんてバカだからすぐ乗ってくる。こっちからお金要求しても,それでも来るんだよ?男なんてお金で買える…違う,ただ罠にかかるカモだよ」

「…」

「都会の男なんて全部そう。付いてる頭は飾りだよ」

優希ちゃんはそう言って笑う…とても哀しい笑顔。

「だから…彼氏なんていらない。好きな男なんていらないよ」

自分が,人を好きになれないことがもどかしい。人を好きになれないことが怖い。そんな気持ちが伝わって私の胸を締め付けた。

「…どうしちゃったんだろうね,あたし。人としておかしくなっちゃった」

高校時代に離れてから…彼女がどんな生活をしてきたのか分からない。その生活が,まるで砂漠のように心に涌き出ている水を全て吸い取ってしまったかのよう…。

「え…明美?」

気が付くと,私は優希ちゃんの可愛い唇に口付けていた。そしてきつく抱き締めていた。

「私は…優希ちゃんが好き。今は心が疲れてるだけ…一人で頑張ったんだもんね」

「あ……明美ぃ」

「今は誰もいないから…ね?」

「あうぅ明美…あたしを元に戻してよぉ」

堰を切ったように声を上げて泣き出した彼女。私には,彼女の心を全て知ることはできないと思う。でも支えになることはできるはず…なぜなら,私にとって彼女は親友なんだから。どれだけ疲れ切っていても,彼女は私のかけがえのない親友。

「私の知ってる優希ちゃんは…いつも前を歩いていたから。少しくらい休まないと疲れちゃうよ?私が休ませてあげるから」

「……うん」

どのくらい泣きじゃくっていたのか…月が少し傾いている。

「……ありがとう。明美」

私は,太陽の光を受けてほんのり光る月。それで彼女を支えられるなら,喜んで月になる。それが私の生き得る道。

 

生まれてこの方,この山で真夜中にこんなところを歩いた記憶はなかった。同じ場所,見慣れた場所でも昼と夜では顔が違う…とはよく言うが,まるで全然知らない土地へ来たような感覚に襲われる。

私たちは神社を出て階段に差し掛かる…。

―――暗闇へ続いてるみたい。

境内から石段の下を見下ろすと,それはまさに闇へ続いているよう。そんなに段数が多かったイメージはないが,上から見下ろすとかなりの高さになっている。手前は月の光が当たって浮かび上がり,下へ行くにつれて月の光が陰に覆われ,段があるのかないのか不安になる。

「ちょっと…怖いね」

私が正直な感想を言うと,

「何子供みたいなこと言ってるの。早く行こ?」

彼女は少し意地の悪い笑顔で手を出してきた。

その手は小悪魔の誘惑。ちょっとした悪戯しよう?笑えるよ?と,子供染みた発想が見える。でも私はそれでもよかった…優希ちゃんと二人,再びこうして笑いあえるなんて,一昨日まで夢にも思わなかった。

「あたし,魔法が使えるんだよ?」

「…え」

「だから,ほら」

彼女はそう言って私の手を優しく掴む。冗談が好きな彼女だということは知っているんだけど…それでも理解に苦しんでいた。

「いい?」

「え,え?ちょっと…」

私が言い終わる前に,彼女の手に引かれた体が宙に浮いていた。足が地面に着いていない。

「あ」

「あはは。どう?明美」

「どうって…どうなってるの?」

自分でもなんて間の抜けた言葉だと思いつつも,そんな言葉しか出てこなかった。でも一番不思議だったのは…全く怖さを感じていないということ。

「行くよ明美」

彼女に手を引かれ,月の光が降り注ぐ空へ上がっていった。さっきまでいた神社が少し小さく見え始める。

「優希ちゃん,どうして?」

「考えると楽しくないよ? そのまま感じればいいの」

その穏やかな表情は,その魅力で人間を虜にする,まるで妖精。大げさな表現だとは思えないほど,その言葉が当てはまった。

「明美,どこか行きたいところある?」

「…あの川に行きたい」

「うん。行こう」

私がひとこと言っただけで,彼女は全てを理解してくれていた。

次の瞬間,私はその川の河原にいた。いつも彼女と遊んだ河原。

晴れた日も,小雨の日も,春も秋も,関係なかった。暇さえあればここに来ていた。

いつも私か優希ちゃんのどちらかがいた。嬉しいことがあればここへ来た。悲しいことがあればここへ来た。母さんに作ってもらったおにぎりを持ってここに来たこともあった。

優希ちゃんもまた同じだった。

「あは,冷たくて気持ちいいよ」

彼女は靴を脱いで,真夜中の川ではしゃぐ。月に照らされ水を相手に踊る妖精。

「ほら,明美もおいでよっ」

「きゃ」

ばしゃばしゃと冷たい水をかけてくる優希ちゃん。

「もう,ひどいよ〜」

「あはははっ」

暗闇に輝く彼女の笑顔。私がこの世で最も好きな笑顔。

―――また,会えた。

優希ちゃんは,朝日が昇り始めた山で一足先に私を照らした太陽。

私が望んだときには彼女に会うことができた。それはずっと当たり前で,彼女がいなくなることなどないと確信していたときのことだった。

“じゃあ,またね”

その日,私と優希ちゃんはいつものようにこの川の河原に来ていた。他愛もないことを話して笑いあい,悩み,励まし合った。ただそれだけの日々だったけど…恐らく幸せな日常だった。そして別れ際,彼女はいつものようにそう言った…今思えば,そのときの彼女の横顔…いや,その日ずっと優希ちゃんの少し寂しそうな表情を何度か垣間見たはずだったのだけど…。

―――気付けなかった。

次の日から優希ちゃんはこの河原に姿を見せなくなった。その日は何か予定でもあるのだろうと,一人で過ごして帰った。でも2日,3日とすぎるうち…私は少し不安になって,彼女の家に…。

―――あれ? そう言えば,優希ちゃんの家どこだったっけ…。

度忘れしちゃったかな…4年ぶりだし。

「ねぇ,優希ちゃん」

―――…。

「え?」

たった今まで水と戯れていた優希ちゃんが,いない。

サアアァ…

夜風が吹き抜ける,さっき飛んでくるまでいた神社の境内に座っていた。あたりに人の気配はなく,あるのはただただ風に吹かれてそよいでいる木々だけだ。

「優希ちゃん?」

―――…?

優希ちゃんって…誰?

口が発した言葉に,私は全く聞き覚えがなかった。と同時に,今日の出来事が巻き戻るフィルムのように一瞬で頭の中を横切った。

―――…。

楽しかった出来事。嬉しかったこと。感動したこと。不思議に思ったこと。

全部が,幻。

「………そんな」

有り得ない。

「………そんなのって」

信じたくない。

「………………親友じゃ,ないの?」

もう,訳が分からなかった。

“自分が望む世界を作れたら,どんなに幸せだろうね。好きな奴と二人でさ”

彼の言葉が反芻した。

体の力が全部抜け…腰を下ろしていた境内から地面にうつ伏せで倒れ込んだ。

―――夢を,見てたの?

誰もが言うであろう台詞が横切った。

―――私が望んだもの…親友と二人,田舎での暮らし…。

哀しいという言葉では表現できない感情に,涙が押し出される。冷たい地面の土に染み込んでいく。

私は,あの花火の炎を見る少年のように…一瞬の輝ける世界に浸ってしまったのか。花火は,あの一瞬の輝きのためだけに作られ,そして消える。人はそれに酔いしれるが,祭りの後は哀愁が漂う。花火が派手で,美しい分その反動は大きい。

自分が望んだモノが全て幻だと分かったとき…人はその反動に耐え得る心を持っているのだろうか。

私はここに来る前も,心が健全とは言えなかった。でも…。

―――これじゃ追い打ちもいいところじゃない…。

「あたし,魔法が使えるんだよ」

ひどい。今まで私をからかって遊んでたのね。…殺す。

ナイフが手元にあったら…殺す。木に張り付けて切り刻んで…首の動脈を切って,そのまま放置しておく。あの可愛い顔を苦痛に歪めさせてあげる。

軽いお仕置きじゃない。今の私に比べれば…でも安心して。そのあと私も行くんだから。

信じるモノがなくなった。信じられる人がいなくなった。信じる人がいなければ…生きていく価値なんてないじゃない。

―――…魔法が解ける前に…私を殺して欲しかった。

あの子に殺されるなら…なんと嬉しいことだろう。あの笑顔で…。

…あの場所へ行こう。

ふと思い立った私は,さっき見たところへ行きたくなった。もう動かないと思った体に無理に力を入れ,立ち上がる。土だらけの浴衣になったけど,どうでもいい。

真夜中で人がいないのは幸いだった。こんな形相で,こんな身なりの自分を見られなくてすむ。

何歩か進むごとに崩れ落ちる体。鬱陶しく思ったが,あの場所へ行けば用済みだ。

神社の鳥居の前にある石段…数段だが,二段目で踏み外し,そのまま転げ落ちた。面白いように体が回転し,そこら中を打撲した。でも意識はあった。

細い山道を滝の方へ一歩一歩戻る。夕方にはあった提灯がなくなり,月明かりを頼りにして道をたどった。自分の影がこんなに長いなんて…気付かなかった。

ザアアアァ…

滝の音が聞こえる。もうすぐだ…。

滝の裏の道に入る…ここの提灯は片づけられずに,未だに飴色の光を放っている。

―――見るのは,私が最後ね。

と,不意に体が崩れた…地べたに座り込んだ。

―――もう少しなのに…。

もう気力が沸かない。瞼が降りた。

―――もう,いいかな…。

そう思った瞬間,体の力がなくなり,どっ,と自分が倒れる音を聞いた。

そのすぐあと,ふっと自分の頭が宙に浮いた。重い瞼を開けると…

「あたし…明美を見殺しにするの嫌だよ」

「…,…」

その子は失礼なくらい涙を流していた。

「十年間,ずっと待ってたのに」

冷たい涙が顔に落ちる。

「……私の,台詞」

何故かその子は…さっきまで一緒にいた気がした。

「のぞみだよ? わかるっ?」

そう…希望。私があの場所でいつも笑い,遊び,はしゃいだ…同じ浴衣を着たら,サイズが合わなくて少しむくれていた…母さんのおにぎりを一緒に食べたら,うちのかかぁの方がおいしいって言ってた…花火大会より,線香花火の方が好きって言ってた…旅行に行こうと言ったら,神社で一緒に一晩過ごせたらいいって言ってた…希望だった。

「…顔も見たくない」

実際,見えなかった。

「明美ぃ…」

見えなくても,どんな顔してるか分かる。

「遅刻しすぎた希望の顔なんて,私は大嫌い…なんだから」

自分でも分かった。私,笑顔だ。

「さっきまでいたよぉ…でも,優希なんて名前じゃないからね。希望だよ? 魔法なんて使えないよ? 顔は,同じだったけど…」

「嘘つきは嫌い…」

「あたしの家,あの丘の上だよ? 知ってるでしょ?」

「知らない…前田希望だなんて,ありきたりな名前」

「明美…あっ」

私は頭を希望の胸に押しつけて思いっきり甘えてやった。急なことに戸惑っているみたい。

「さっき甘えさせてあげたでしょ」

「…うん。いいよ」

その言葉の意味を理解できたのか,希望はそれを受け入れてくれた。

どのくらいそうしていただろう…希望の温かい胸の中で静かに涙を流した。偽りのない,希望との記憶。脳の奥底に眠っていたフィルムを引っ張り出して…十数年ぶりに鑑賞した。

「行こっか」

タイミングを計ったかのように優しい声でそう言った。

私は頷く。それだけで…親友を感じられる。何も言わなくても,望んだことを分かってくれる。小さい彼女に肩を貸して貰って立ち上がる…と,不思議に体が軽くなっていた。

「ありがとう…大丈夫」

「早く,こっちだよ!」

私が大丈夫だと分かった瞬間から,彼女は我先にと目的地に向かって早足に歩く。

…あの場所。

少し高い畔道を下り,懐かしの河原に降り立つ。下駄を履いた足に伝わるじゃりっという感触。鈴虫の鳴き声,川のせせらぎ,頬と髪に吹き付ける夜風。五感を超え,第六感にも伝わる存在感。心の奥底に錆び付いたまま置いてあった時計が,新たに時を刻み始めた。

「あはは,明美〜ほらっ!」

バシャッ!

「もう,希望!」

Tシャツとハーフパンツの彼女は川に入って水と戯れている。場面は全く同じだけれど,あの幻にはなかった,はしゃぐ小さな顔と,溌剌とした表情。

―――やっぱり,可愛い。

白み始めた景色に一際輝く彼女の笑顔。私がこの世で最も好きな笑顔。

私は思わず川の真ん中で,彼女を抱き締めた。

「きゃん,明美〜」

―――また,会えた。

希望は,朝日が昇り始めた山で…誰よりも先に私を照らした太陽。

私は希望という名の希望と共にある。