記憶-花火-
少しの間,涼しい風に吹かれながら夕日を眺めていると…何か下の道から賑やかな子供たちの声が聞こえてきた。
「…ああ,そう言えば今日は花火の日だな」
「あるの?」
「神社の方でやっとるよ」
傍らの母さんはそう言って滝の向こう側にある赤い鳥居を指差した。山の日陰になり夕日は届かず暗くなっている。
「確か箪笥にまだあったよ。用意しとくから着て行け」
「ちょっと母さん…」
特に行くつもりはなかったのだが,母さんが少し嬉しそうに家に戻るのを私は止められなかった。…止めたくなかった。
―――何かの巡り合わせかな。
偶然とはそういうものかも知れない。人に見えざる神の手…とでも言うのか。
小さい頃に…多分,数回だけ行ったことがある縁日。…誰だったか,友達がいたような気がするが…はっきりと覚えていない。多分友達と言える人はその子だけだったと思う。この村の中学まで同じように進学したが,その子は高校が少し離れていたので交通の便から一人暮らしをするようになり,村を出て行った。
以来私は高校を卒業するまでここで一人だった。両親は特に勉強のことは言わなかったし,私が生活する上で不自由は特になかった。けど私が当時一番欲していたものは…ここでは見つけることができなかった。
短大に合格した私は上京した。当然私は勉強もしたかったし,就職のことも考えていた。でも一番欲しかったのは…友達。同い年で喜びも共有でき,悩みも話せる友達だった。当然田舎出身の私は都会の雰囲気に呑まれていたが,それ以上に期待が大きかった。でも未だにそんな人はいない。成人して酒も煙草も男も覚えたはずなのに,私が一番欲してやまない友達という存在の人がいない。今の会社でも…近い人はいるが友達とは呼べない。
…やめよう。
私は立ち上がってお尻を2,3度パンパンとはたく。
「…こんなことしに来たんじゃない…」
呟いたが,その声がどことなく嫌々発している声に聞こえた…。
「やっぱうちの子だぁ…何着ても似合ってるねぇ」
母さんが,姿見に映った浴衣姿の私を見てうんうんと頷いている。私が浴衣を着るのは…いつぶりだろう。全然思い出せないほど昔に数回着たほどだ。
けど,浴衣にいい思い出があるとは思えなかった。帯を締めたとき,何か記憶の彼方の古傷に触った気がした。
―――どうしてここにいるんだろう…。
見慣れた和室にベージュ…というよりクリーム地と言った方がいい浴衣に紺色の帯をした女性。表情は…自分では見るに堪えない。
「ほら,行っといで」
そんな私を知ってか知らずか,母さんがしつこいぐらいに尻を叩いて家から出そうとする。
玄関に行くとどこかで見たような下駄があった…女性用の下駄で,確か瓢箪型とか言った気がする。桐をくり抜いて形を整え,飴色を塗ってからニスで保護したという父さんの苦心作…という話を,ここに帰る前に聞いた覚えがあった。
「父さんは庭だから〜!」
「…うん」
奥からの声に私は返事をしてから,父さんに見せてあげなさい,という意味が含まれているのを理解して少し可笑しくなった。
何十年かぶりに下駄というものを履いた。足の裏がひんやりして気持ちいい。
―――そう言えば子供の頃も同じことしてたな…。
父さんが作ってくれていたことをあの頃は気付かなかった。
カラン,カラン…
懐かしい足音。
玄関を出ると,父さんが庭で苗木に水をやっている。
いつもの光景…否,いつも見てた光景。その場面に記憶のブランクはあるものの,記憶には確かにある。いくら古びてもそれは記憶に残っている限り,自分にとってなくてはならないものなのだろう。
「よう似合うとる」
どう声をかけようか考えていると,いつの間にか父さんが私を眺めていた。
「そう?」
「俺がこしらえたんじゃ」
当然だ,という顔をしながらも笑顔。
「ありがと」
あまり父さんに面と向かってお礼なんて言ったことないから…少し恥ずかしい。
「とっとと行ってこい」
父さんも照れ隠ししてるのがわかった。不思議なことだけど,何で恥ずかしいんだろう…ただお礼を言っただけなのに。
“気持ちのこもった言葉ってのは…恥ずかしいものなんだろうよ”
また彼の言葉が反芻される。そう言った彼自身も何か恥ずかしげだった記憶がある。
「うん」
夕日は暮れ,薄暗い見慣れた道を歩く。子供の頃はこんな暗い道を歩いたことはなかった。
家から滝のところまで来ると,そこからは提灯がところどころに掛けてあった。やっぱり灯りがあると安心する。右に曲がり,神社に向かう。ここでは聞き慣れた滝の音が迫る。神社へは滝の裏の道を通って行くのだが,私はこの場所も好きだった。
提灯の橙色の灯りでさながら洞窟のように照らし出される道。その左隣を滝が落ちている。
低い柵にもたれ掛かかり腕を伸ばすと冷たい滝の水が手の平に入ってくる…あの頃は届かなかったのに…。
あの子と喧嘩したときは決まってここに来ていた。どっちが悪いのか,何故悪いのか,子供ながらに考えていたが,翌日には二人とも忘れてまた遊んでいた。
思えば,子供のときは素直に謝ることができていた。そしてどんなにあの子が悪くても,謝られれば次の瞬間にはいつものように遊ぶことができていた。確かに子供の頃は大人のようなストレスはない…けど,他人を素直に信じられるような,もう少し子供の心を持って大人になりたかった。
―――いや,持ってるか。
わがままという子供染みたものは持っている。自分の思い通りにならないと嫌になる。それが例え仕事でも,彼氏のことにしても,自分のことにしても。
女の特権という言葉が蔓延っている…虫唾が走る。甘えをその言葉で全て隠している感じがする。それを受ける男もそう…腐ってる。
くだらないことばかり自分の中に残ってる。子供の頃の大切なものは全て置き忘れてきた。これが大人になることなら,いっそ大人になる前に人生を降りるべきだったのかも知れない。人生を降りようと思ったことは何回も,数え切れないくらいある…でも無理だった。
―――勇気がない。
誰しも言うだろう。それは勇気じゃなく自暴自棄になってるだけだと。でもそんなことを言う人はどこか自分に自信があって周りに多少なりとも信用できる人がいるはず。
“あなただけの命じゃない”
こんな言葉を言う人もいるけど,じゃあ一体誰の命?それを答えられずして適当な言葉を言わないで欲しい。所詮人間など極限状態になると自分のことしか見えないくせに,少しでも余裕ができるといろいろと他人の世話を焼きたがる。そんな押し売りはいらない。
自分でも情けない…自分で立てない自分。自立できない大人。大人という名の子供。誰かに頼らないと生きていけない自分。子供染みたわがまま。
当然,これら全部を排除して生きようとしたこともある。でも無理だった…生きていることが,全く意味のないことに思えてくる。
…どうすればいい?
誰か,この迷宮から私を救い出して欲しい。これ自体誰かに頼っているけど,結局はこうしないと私は生きていけないのか…。
「明美?」
その声で私は現実に引き戻された。
「…」
私は左から掛けられた声に驚いて見る。この村で私に声を掛ける同年代に見える人など皆無だと思っていた。
「やっぱり!あたしのこと覚えてる!?」
「え…」
背丈はあまり高くない…Tシャツとハーフパンツというラフな格好。小さい顔にポニーテール。見覚えはないはずなのだけど…。
「まー無理もないよね。20年ぶりだし」
「…優希ちゃん?」
自分でも誰か分からないが,その言葉が勝手に口から出ていた。
「そう!覚えてたんだ!」
彼女は感激したらしく私の両手をつかんできた。
「偶然だね,嬉しいな。いつ帰ってきたの?」
そう…彼女こそ,私の唯一の友達と言える人。
私より少し小さい彼女はぴょんぴょん跳ねて私の顔を覗き込んで来る。そのたびにポニーテールが揺れる。
「今日朝着いたの」
「そっかぁ。ホントに奇遇だね」
その後彼女に手を引かれ,神社まで歩いた。その間ずっと彼女が喋りっぱなしだったのは言うまでもないだろう。彼女はころころと表情を変え,その可愛さを余すところなく存分に発揮していた。
神社に着いた。小さい村なので人はそれほど多くないが賑やかだ。定番の出店が並んでいるが,私にとってはずっと昔に忘れ去ったと思っていたものだ。
「ね,早く行こう!」
「危ないって…もう」
急に手を引かれ転びそうになる。
―――なんか,可愛い。
彼女も同い年なのにまだ幼く見える…というのは,彼女にとって失礼なのだろうか。
綿菓子,金魚すくい,お面屋さん,たこ焼き…見覚えがある出店。と,とあるイカ焼き屋さんで,
「安田のおっちゃん!」
優希ちゃんが店の主人を見るなりそう呼びかけた。
「よう優希ちゃんじゃねぇか!帰ってきてたんか?」
「うん!」
「よし,美人にはサービスしとけぇ!ほれよ!」
「ありがと!」
私は…はっきり言って覚えていない。
「お…そっちの美人は…明美ちゃんか?」
「え…うん」
呆気にとられながら返事をすると,
「会わないうちにこれまた別嬪さんになって!これ持ってけ!」
安田さんは得意気に自分が焼いたイカ焼きを私に手渡してくれた。
「…ありがとう」
子供たちが走り回る出店の石畳を歩いて神社の境内まで来る。
「あ,やってるよ」
花火大会という大仰な名前だけど,そんなに大きなものではなく村の花火師が新作を披露するようなもの。本人さんはもう70歳を越えているが,それでも腕は衰えていない。
普段は誰も立ち入らない境内横の石畳で赤,青,黄の光が入り乱れ,その周りを子供たちが目を輝かせて見つめている。
人が多くなってきたので人気のない本殿横の境内に移った。
―――私もあの中にいたのかな…。
少し感慨に耽っていると,
「明美」
「え?」
向こう側に見える花火を見ながら,貰ったイカ焼きにパクついていた優希ちゃんが,不意に私に声を掛けた。
「どうして帰ってきたの?」
「…」
私の本音を聞きたいという優希ちゃんの目。
「あたし,毎年帰って来てたよ」
彼女は,明るく輝く噴水花火を見つめる。その光に照らされ表情が見えない…。
「明美に会いにね」
「え?」
思わず優希ちゃんに視線を移す。
「でも明美,全然帰ってこなくて…もう忘れたのかなって思った」
少しいじけた風に足を揺らす彼女…その影が長く伸びている。
「…」
「高校から一人で暮らし始めて…もう10年以上になる」
「…」
「明美は結婚まだ?」
「うん。…優希ちゃんは?」
「まだだよ」
少し憂いの表情を浮かべながら言った。
私は驚きでいっぱいだった。優希ちゃんは強い子だから都会で自由気ままに暮らしているとばかり思っていた。人懐っこくて可愛らしくて。私にないものを全て持っている…と思っていた。その彼女が,私と全く同じ境遇だなんて夢にも思わなかった。
私は言葉にできず呆然と花火風景を見ていた…子供たちが手筒花火を持って,それをまるで周囲に光り輝く宝石の如く見つめている。でも花火は数十秒で消えてしまう…その子は,また別の花火を手にして灯籠の火にかざし,再び生き返った色とりどりの炎を見つめていた。
やがてその子供たちも親御さんに手を引かれ,まばらになり…やがてその灯籠の周りには誰もいなくなった。出店もたたまれ,いつもの神社であろう景色に戻りつつあった。
花火と同じく祭りの後は…平日の夜よりも寂しい。聞こえるのは立ち去る子供たちの声と,小さく響くカランカランという足音と…夜風の音。
どのくらいその音を聞いていたのだろうか。…不意に私の口から言葉が滑り出た。
「…私に会いに?」
優希ちゃんは小さくこくりと頷いた。
「どうして?」
その声はすぐ隣にいる彼女には届かないのかと思われるほど,夜風の音が二人の間をすり抜ける。
「…寂しいの」
思いがけない言葉が耳に入って来た。
「毎日家に帰っても誰もいない。職場も表面的な付き合いしかない。彼氏もいないし…高校からずっと。…寂しくて潰れそうなの」
彼女は…泣いていた。
「毎年ここに帰ってきても明美さえいないんだよ?何で会いに来てくれなかったの!?あたしのこと嫌いなの!?」
風と木々のざわめきに紛れ,私に訴えかけるように言う彼女を…私は,思わず抱き寄せていた。思ったよりもかなり小さく華奢な肩が震えている。
「…大好き。決まってるじゃない」
それは少し嘘だった。でもその嘘を上回る本当の感情がそうさせたみたい。
「…あたしは嫌いだよ。…でも好きだもん」
優希ちゃんは,私の胸の中で嗚咽混じりにそう言った。
「遅刻もいいところだよ…」
浴衣の胸の中でぐりぐりと頭を動かす。
「ん…ごめんね」
私は,親友に笑顔を貰ったことに気付いた。見つけてたことに気付かなかった…友達という存在。彼女を,他の何と言えばいいんだろう。
「ほんとに…ごめんね」
今度は私の頬を涙が伝っていた。人生の最初に見つけた友達を,私は忘却の彼方に置き去りにしていた。でも優希ちゃんは,
「あたしは明美のこと,明美がいなくなっても忘れないよ?」
ふわり。
今度は彼女が私を抱き締めていた。
―――私は…甘えに来た。
ここに着いたときからそう思っていた。思い出というこの甘い時間に浸りたかった。
「あたしの明美だからね?」
耳元の不意の言葉に少し戸惑ったけど,
「絶対?」
優希ちゃんの柔らかい胸の中でもう一度確認した。
「うん」
花火は…一夏の華。夏が過ぎれば誰しも忘れる。私たちの夏がようやく訪れ,欲していた答えがようやく見つかった気がする。