記憶
特急で1時間,ローカル線で1時間,バスで1時間…都市圏から約3時間,私は4年ぶりに実家へ帰ってきた。
このあたりでは異質のものと感じてしまうアスファルトの道。
停留所で降りる。まだ朝靄の晴れない中,私は記憶の片隅にある古びた地図を広げた。ここからは約20分程度の行程だったと思う。
見覚えのある方向へ足を向ける。最近まで縁がなかった田んぼの畔道に入ろうとし…
この道は確かハイヒールで歩けない。
―――…そういえば私が上京するとき,母さんがここまでは草履で行くようにしつこく言ってたな。
あのときは前日までそう言われていて,いざ当日になるとハイヒールを玄関で履いてたことを思い出し,思わず苦笑した。
水気が多いので道と言っても田んぼに浮かんでいる島と言った方がよい。悪戦苦闘しながらも私は記憶の地図を頼りに歩き続けた。
ようやく見覚えがある場所になってきた。もう記憶の地図はいらないだろう。
と,安心感からか少し小腹が空いていることに気付く。
―――別に実家に着いてからでもいいのだけど…。
気付くと私は道端に腰を下ろしていた。森のアーチが空を覆い,涼しい日陰を作り出している。目の前の森の向こう側を走る細い川。上流の小さな滝から自然の息吹が聞こえる。周りを見渡すと…澄んだ空気,鮮やかな緑,虫の鳴き声,川のせせらぎ。2年前までは確実に私の周りにあったものなのに,今更ながら新鮮な感じと懐かしい感じが上品にブレンドされて私の胸に入ってくる。
向こうを出るときに買ってきたコンビニのお握りをバッグから取り出し,少し早い昼食にする。
―――…。
いつも食べているコンビニのおにぎりのはずなのに,こんなに味があったんだと初めて気付いた。場所も雰囲気も違うから当然かも知れなかった。
小さい頃に泳いだ川。もう名前も忘れてしまったけど私の記憶には確実にその思い出がある。ここで泳いでいるとなんだか落ち着く自分がいた気がする。実家に自分の部屋はなかったし,両親は結構うるさい方だから子供の頃の自分にとってはあまりありがたい環境ではなかったらしかった。
そのとき決まって迎えにきてくれたのは父さんだった。
「今日は泳がんのか?」
「今日は水着持ってないし」
いつもながら父さんは突然の登場だ。
「どこの美人がこんなとこで湿気たメシ食ってんだ?」
「あんまり寂しがるからわざわざ帰ってきてあげたのに?」
父さんも私も吐き捨てるように言葉を交わす…恐らく他人から見れば会話と取らず,両名の独り言と取ることだろう。
「ふん」
鼻で笑いつつ,やっぱり顔も笑顔になっている。
今住んでいるところに父さんから手紙が届いたのは3週間ほど前だったみたい。その時は仕事の納期でかなり忙しいときだったから,当然家に帰っても寝るだけの毎日が続いていた。つまり手紙には気付かなかったというわけ…で,気付いたのは4日前。
「早くこねぇと日暮れちまうぞ」
そう言って父さんは元来た道を歩き出した。
―――私は…待っていたのかも知れない。
この土地がそうさせたのか,はたまた自分が望んだことなのか…はっきりとはわからない。けれど,嬉しかったのは紛れもない事実。
「待ってよ,父さんてば」
私は少しはしゃぎ気味に恰幅のよい父さんを追った。
数え切れないくらい往復した道。思い出たくさん詰まっている道。その道をまっすぐ歩くと藁葺き屋根が見えてきた。
家自体はだいぶ痛んできているが,まだその頑丈な造りで健在ぶりを誇示しているかのようだ。記憶にある光景と殆ど同じ…まるで時が止まっていたかのような錯覚。
「おい,帰ってきょったぞ」
父さんが玄関の奥に向かって母さんを呼ぶ。程なくして,ちょっと慌てた風に母さんが出てきた。
「あら…どこの別嬪さん?明美?」
「ご無沙汰,母さん」
少し老けた感じがするはずなのに,やっぱり面影はあのころのまま。
「よう帰ってきたな,早くお入り」
母さんは私の手をつかんではやばやと家に連れ込まれた。再会したときからやっぱり母さんはずっと喋りっぱなし。対する父さんは殆ど話さない…こういう関係というのはどこの家庭でも同じなのだろうか。
夕飯を過ぎてから散歩に出ることにした。実家にあった普段着に着替え,家を出る。
夕暮れの田舎道を歩く。空が赤から青をすぎて夜の色に変わりゆく,この時間が好きだった。向こうではこの時間,仕事に忙殺されてこんなにのんびりすることはない。
滝の前の二手に分かれた道を上に向かって歩く。そこまで坂道ではないが,さっきの森を眼下に見下ろせるまでに高くなるので結構登っている。
この場所からはまだ太陽を見ることができる。
太陽と月,相反するものが同時に存在する世界。私が最初にここに訪れたのは…もう思い出の中の時間。
本当は“思い出”という言葉が嫌いだ。
私は思い出を消したかった。過去の思い出にすがりつくのはもう真っ平だ。でも私はここに戻り,思い出に浸っている。
人間というのは矛盾した生き物だ,と同僚の東城君が言っていた。そのときは一笑に付したことを覚えているが…今はその言葉こそ真理かも知れないと思い始めている。
強くないのに強がって,頼りたくないのに頼って…死にたいのに,死ねない。
ただ…私が弱い人間なのか…。
それが自分の意思に対して弱いのか,人間として弱いのかわからない。
彼に捨てられ,仕事もうまくいかず…ダブルパンチとはこのことかも知れない。
人間は一人では生きていけないという。であれば,一人で生きざるを得ない人間はどのように生きればいいんだろう…学校時代に勉強をサボりすぎたからわからない。
“人生は勉強なのさ…なのに更に勉強しないといけないだなんてバカみたいだね”
“頭のいい奴ほど悩むのさ。それが頭のいい生き方とは到底思えないんだけどね”
思えば東城君の言葉ばかり反芻される。2週間前まで一緒にいた彼の言葉は全く覚えていないのに…。
敢えて置いてきた携帯が少し恋しかった。東城君なら生き方のコツを知ってるかもしれない。彼も私みたいな状況に置かれたことがあるのだろうか。だから悟ったような言葉を言えたりするのだろうか。それとも私を勇気付けるための造語だったのだろうか…。
でも多分彼ならこう言うだろう。
“失敗がない人生なんて人生じゃないね。失敗してこそ人間だし,可愛げもあるのさ”
ただのだべり友達だが…ちょっと近付いてみるのもいいかも知れない。
…何故だろう。彼の顔を思い浮かべると少し元気が取り戻せた。
「まさかね」
でも彼の力を借りたのは事実…。
―――今度お礼言っておこう。
何のことかわからないだろうが,何か言葉を返すはずだ。その言葉にお世話になる日もあるかも知れない。
「ここにいたの?」
今度は母さんがいた。ラップした小皿におにぎりが2つ乗っている。
「ご飯少なかったから」
「気を遣わないでいいってば」
「遣ってないの。どうせ向こうでろくなもの食ってないでしょ? せめてここでだけでも…ほれ」
少し不器用な優しさ。私の手の平に無理矢理のせてくる。
その,少し大きめのおにぎりを口に運ぶ。
いつも食べるものとは全く違う,生気の入った味。単純な言葉だが,やっぱりこの言葉が合うだろう。
「…おいしい」
「当たり前だぁ」
そう言った母さんの顔は,全て分かったような優しさを湛えていた。